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戦時中の生活をつづった自作のメモをながめる羽間美智子さん=尼崎市
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戦時中の生活をつづった自作のメモをながめる羽間美智子さん=尼崎市
疎開先の多紀郡篠山町(現・丹波篠山市)の寺院での食事風景(松前泰子氏提供、尼崎市立地域研究史料館)
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疎開先の多紀郡篠山町(現・丹波篠山市)の寺院での食事風景(松前泰子氏提供、尼崎市立地域研究史料館)

 幼い子どもたちも戦争の混乱に巻き込まれた。

 兵庫県尼崎市の羽間美智子さん(85)は戦争が激化した1944(昭和19)年8月から、川辺郡中谷村(現・猪名川町)へ集団疎開した。当時は尼崎の長洲国民学校に通う小学4年生。見送る両親に手を振り、同級生たちと国鉄金楽寺駅から汽車に乗った。能勢電車に乗り換え、山下駅(川西市)で降り、4キロほど歩いた安養寺の庫裏が新たな生活の場所となった。

 狭い庫裏では2人1組でひとつの布団を分け合って寝た。最初はみんな遠足気分だったが、次第に親が恋しくなって夜中に『お母さーん』と泣き出す子もいた。「私もさみしかったけど、絶対に泣かないと決めていた。だってお国のために仕方ないことだから」

 食事は当初、丸皿にご飯とおかずが盛られ、汁物が付いたが、終戦の45年は「コーリャン」という穀物が入ったおかゆだけになった。「おなかが減りすぎて、胃腸薬を食べたり、歯磨き粉や赤い絵の具をなめたりした子もおった」。おかゆばかり食べていたことから、地元の子からは疎開とかけて「オカイの子」とばかにされた。

 冬のある日、「特別な配給」としてビスケットが配られた。「皇太子の誕生日だから」と先生から説明があった。2人で1枚を分け合い、寒空の下で東の方角を向いて祝福の歌を歌った。「何でこんなことするんやろ」。違和感はあった。

 授業では日の丸の意味、天皇家の歴史を学び、先生からは「戦争は大東亜を解放するための聖戦だ」と諭された。小学校の校内には天皇皇后両陛下の写真が貼られ、前を通るときはおじぎをするのが日課だった。「変やと思うこともできなかった。教育の全てが戦争のためやった」

     ◆

 終戦前の春、父が急きょ疎開先に迎えに来た。「真知子が死んだ」。父の言葉に驚き、言葉を失った。

 妹の真知子さんは当時3歳。肺炎だった。栄養状況が悪く、薬もなかった。父と尼崎に戻り、板で作った小さなひつぎに入れられた妹と対面した。疎開中、年の離れた妹のために、編み物が好きな友達に靴下を編んでもらって尼崎へ送ったこともあった。「時代が違ったら助かっていた。そう思うとかわいそうでなぁ」。家族の死に目に会えなかったこともつらかった。

 学童疎開は国策として44(昭和19)年から始まり、全国17都市の子どもたちが避難を余儀なくされた。兵庫県内では神戸、尼崎市の児童が対象となり、尼崎の子どもたちは終戦直前、川辺郡のほか多紀郡(現・丹波篠山市)や氷上郡(現・丹波市)などの175カ所に5115人が疎開した。

 羽間さんは病気で一時尼崎へ帰りもしたが、親元を離れた生活は敗戦後の45年11月まで続いた。「子どもなのに『さみしい』『悲しい』って言えない時代。敗戦後、尼崎には食べ物はなかったけど、家族一緒に暮らせることが何よりうれしかった」(斉藤絵美)

◇戦争を知らない若者へ 怖い方に行っている◇

 文化や財産。戦争によって、これまで作り上げてきたことが一気につぶされる。そんなアホなことは二度としなくていい。どれだけおなかが減ったことか。焼夷弾から逃げる怖さ、分からないでしょう? 働き手となる男性は軍隊に取られ、残った女性や子ども、お年寄りは国から米を供出しろと言われる。

 でも、勝ち目がない戦争に国民が付いていった原因は、教育が根本にあるのでは。ある種のマインドコントロールだった。今はどうでしょう。だんだんと怖い方向に行っている気がするのは、私だけですかね。

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