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「私もミシンも骨とう品ですわ」。88歳になっても店番をする浮田好江さん=尼崎市
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「私もミシンも骨とう品ですわ」。88歳になっても店番をする浮田好江さん=尼崎市
闇市の雰囲気を残す昭和30年ごろの新三和商店街(尼崎市立地域研究史料館提供)
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闇市の雰囲気を残す昭和30年ごろの新三和商店街(尼崎市立地域研究史料館提供)
戦後、闇市があった場所。石畳が当時のまま残る=尼崎市玄番北之町
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戦後、闇市があった場所。石畳が当時のまま残る=尼崎市玄番北之町

 1945(昭和20)年8月15日、日本は終戦を迎えた。8回の空襲を受けた兵庫県尼崎市では計5・29平方キロメートルがり災し、合併前の園田村を除き、当時の市域の13・4%が焼けた。

 「どうやって家族を養っていこうか」。終戦を14歳で迎えた尼崎市の浮田好江さん(88)は、そればかり考えていた。8人きょうだいの5番目として阪神出屋敷駅前で生まれ、幾度もの空襲をくぐり抜けて生き延びた。しかし、一家の大黒柱になるはずの兄2人が戦死。「生きていくことだけに必死やった」

 終戦後も統制経済が続く中、出屋敷駅の北東地区では、鮮魚の卸売りを始めた故・池田清一氏を中心とした巨大な闇市が出現。石畳が敷かれたバラック建ての市場には100軒近い店がひしめき合い、露店も次々と増えた。池田氏は四国や明石などで買い付けた魚を売りさばき、公務員の初任給が数千円の頃、店の売り上げが1日10万円に上ったという。

 浮田さんも闇市で稼ぐようになる。父から預かった千円を握りしめ、食料が得られると聞いた武田尾(現・宝塚市)に汽車で向かった。「こましな格好した男の人に声を掛けて、食料を調達する方法を教えてもらって。お米を手に入れて尼崎に帰ったら、駅で待っていた父が『大丈夫やったか?』って涙をポロポロ流して。心配やったんやろうね」

 軍服の男性やもんぺをはいた女性などであふれ返る闇市の店先に立って、手のひらに米粒を乗せ、「お米どうですか?」と道行く人に声を掛けた。欲しがる人を自宅に招き入れ、1升400円ほどで売った。「見つかったら捕まる。警察が来たら米粒をすぐにポケットに入れて、逃げられるでしょ」と振り返る。

 農家だった父の実家から分けてもらった野菜も、飛ぶように売れた。「どぶ川が流れてて、そこに板を渡して売るの。家がなくても、戸板とトロ箱さえあれば誰でも商売できた」。周辺には今でも、川を埋めてできた奥行きが狭い店が多く、闇市の名残をとどめる。

 闇市で稼いだ人たちは次第に店舗を構えた。終戦翌年の46(昭和21)年に、池田氏を中心に新三和商業協同組合が結成され、新三和市場(現・新三和商店街)ができた。昭和30年代には周辺の三和本通商店街や三和市場と一体となり、阪神間随一のにぎわいを見せた。「正月は朝4時まで店を開けて、商品が全部売れてしまう。人が多くて押し合いへし合いやった」

 浮田さんは闇市を経て、洋服店で働きながら洋裁や和裁を学び、70年に商店街の一角にある自宅で呉服店を構えた。半世紀たった今も、4畳半の仕事場で毎日、針作業にいそしむ。

 時代が流れ、町の中心部は阪神尼崎駅前に移り、新三和商店街には戦後のような活気はない。「シャッター街って言う人もおりますけど、戦前戦後を思うといい街になった。私ら世代が一番苦労したんと違いますか」。戦後の復興とともに歩んできた浮田さんは、きょうも闇市の面影を残す街で生き抜く。(斉藤絵美)=おわり

◇戦争を知らない若者へ 平和に甘えている◇

 日本が戦争に負けたおかげでこうして静かに暮らしているけど、勝っていたら軍国主義がもっと進んで、えらいことになっていたんと違います?

 正直、もう一回戦争したらええねんって思うこともあります。若い人はびびって、震え上がるでしょう。今は物もあふれている。女性でも働いたら働いた分だけ収入をもらえる。いい世の中になった。だから平和に甘えすぎているんです。

 兄2人はフィリピン・ルソン島とニューギニア島で戦死した。多くの犠牲者が出て、やっと平和になったことを知ってほしい。

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