戦中戦後、鮮明に伝える写真や資料 「尼崎精工」創業者の孫が市立歴博に寄贈
2021/05/19 05:30
軍需工場で砲弾の部品を作る女学生たち(尼崎市立歴史博物館提供)
戦時中は軍需工場、戦後は家電メーカーとして稼働した兵庫県尼崎市の「尼崎精工」に関する500点超の写真や資料が、創業者の孫によって市立歴史博物館に寄贈された。当時、尼崎の主要な機械メーカーで、武器を造る戦時中の様子など国家機密を扱った写真も含まれる。同博物館は「工都・尼崎の歴史を伝える貴重な史料で、幅広い分野の研究に役立つ」とする。(村上貴浩)
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寄贈されたのは、アルバム6冊や企業のパンフレットなど。写真は勤労動員された女学生らが砲弾の信管を造る様子を捉え、100人超の聴覚障害者が労働者として記念写真に収まる。
寄贈したのは、創業者の孫の杉山稔さん=西宮市。きっかけは神戸新聞阪神版の3月25日付記事だった。
「羽も鉄板 尼崎産扇風機/元軍需工場・尼崎精工が製造」。そんな見出しで企業の歴史をたどる企画展を同博物館が開いたという記事を読み、「調査や研究に役立ててほしい」と学芸員に連絡を入れた。
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尼崎精工は1938(昭和13)年、稔さんの祖父で静岡県出身の技術者だった杉山黌一氏が、現在のJR尼崎駅近くに創業。神戸の三菱造船所を経て渡英し、扇風機など電気機器に関する最新技術を学んできた。
当時は職人の物作りが一般的な時代にあって、素人も加われるライン生産方式を導入。聴覚障害者を大量に雇って成果を上げ、福祉への貢献でも注目された。
創業して間もなく軍需工場になり、砲弾の信管製造を請け負って、最大約2千人が働いたという。
しかし戦後、家電メーカーとして扇風機や洗濯機を手掛けると、大企業の攻勢にさらされて56年に倒産。翌年に「アマコー電機」という名前で再出発するも10年後に工場を閉鎖した。
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同博物館の学芸員辻川敦さんによると、写真は企業として残したもので保存状態は良好。とりわけ軍需工場内部の写真は戦後に処分されることが多いため、資料価値が高いという。
写真は他にも、創業当時の地鎮祭を記録したり、黌一氏の息子で2代目社長の平一氏が召集される直前の姿を収めたりしている。
今後、博物館内で一部を常設展示するほか、全ての写真、資料を博物館内の「あまがさきアーカイブズ」で公開する方針。同博物館TEL06・6489・9801