謎だらけの「富松城」 主は誰?、いつ建立?、どんな運命?…調査から60年、分からず
2022/05/03 05:30
江戸時代の古地図には、城があったことを示す字名(赤い〇印)が見える(尼崎市立歴史博物館提供)
幹線道路と住宅に囲まれ、こんもりとした森がある。今から500年前の戦国の時代、兵庫県尼崎市の北西部に「富松(とまつ)城」と呼ばれる城館があった。伊丹と尼崎、西宮の間の要衝で、土塁と二重の堀の遺構が見つかっているが、主は一体誰で、いつ造られ、どんな運命をたどったのか-。本格的な調査開始から約60年を経ても、まだまだ謎だらけの城をめぐる企画展が市立歴史博物館で開かれている。(広畑千春)
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阪急武庫之荘駅から北東約600メートル。富松城跡は、都市部の平地でありながら戦国時代の城館の痕跡をとどめている、県内でも数少ない貴重な遺跡だ。
1963(昭和38)年、県道拡幅工事に伴う発掘調査で矢倉台の土台とみられる遺構が発見されたのを機に2019年まで11回の調査を重ね、当初の想定より大きな規模を持っていたことも分かった。
最も古い記録は、応仁の乱の少し後に記された15世紀末の古文書。富松城は、旧尼崎城と伊丹の有岡城、西宮の越水城を結ぶトライアングルのほぼ真ん中にあった。水陸の交通の要衝だったとみられ、室町時代後期には、管領・細川家の内紛や、三好長慶の伊丹攻めの拠点になった。
さらに、謀反を起こした荒木村重を織田信長が攻めた際は、塚口や毛馬(現在の食満)などの砦を二重の堀で囲むよう指示しており、富松城跡の堀も「この時に造られた可能性が高い」(同博物館)という。
しかし、数々の戦乱の舞台になったとみられながらも、戦国時代の城に特徴的な曲輪(くるわ)などの跡は見つかっていない。同博物館は「住居も一体としていた城とは異なり、戦略拠点としての役目が大きかったのでは」と推測しつつ、各年代の城主も不明で「推定はできても、決定打がない状態」とする。
企画展では、これまでの文献史料の調査研究や発掘調査などで明らかになってきた城館の姿を絵図、出土資料などで紹介。「この地を舞台に、天下を目指し武将たちが争った時代に思いをはせてほしい」という。
無料。6月19日まで。午前9時~午後5時(入場は午後4時半まで)月曜休み。5月14、29日、6月18日には学芸員の解説も。いずれも午後1時半~2時半。事前申し込み不要。TEL06・6489・9801