尼崎の市外局番なぜ06?「昔は大阪市だった」説はほんま!? 工都の成長を支えた住民の執念に脱帽

2022/10/29 05:30

淀川局と尼崎局の電話番号が並んで記載されている1950年代初頭の企業広告=尼崎市立地域研究史料館

 こんな都市伝説がある。 関連ニュース 同じ自治体なのに、二つの市外局番、なぜ? 加古川市と播磨町の一部 「もう時代が許さない」 黙認70年、尼崎・売春街解体の舞台裏 震災で存在感発揮した1台の公衆電話 尼崎で守り続け27年



 --電話番号の市外局番が「06」の尼崎市は、昔は大阪市だった--


 それ、ほんま!? 真相を調べてみた。

   ◆   ◆
 「遠い所の人には大阪出身って言います」
 こう口にする尼崎人は少なくない。「兵庫って感じやないでしょ。市外局番も06やし」
 そうなのだ。「アマは大阪」と思われる最大の理由は大阪市と同じ「06」。隣接しているとはいえ、これほどの大都市が府県を越えて同じ局番というのは珍しい。
 尼崎市立地域研究史料館(当時)に足を運ぶと、担当者が意外な経緯を教えてくれた。
 「尼崎市民にとって大阪局への編入は悲願だったんです」

 尼崎の企業の多くは戦前から、商業の中心だった大阪市内に本社や取引先を持っていた。当時は市外に電話をかける場合、各電話局の交換手を通す方式だったが、大阪と同じ局内になれば手間が省ける上、料金も安くなるからだ。
 明治中ごろの1893年、尼崎紡績(現ユニチカ)が最初に大阪局から電話線を引いた。しかし、全市編入には半世紀以上もかかっている。

 こんな話がある。
 空襲で大きな被害を負った戦後、電話の復旧は最重要課題だった。だが、海抜ゼロメートル以下の市南部にあった尼崎電話局は何度も水害に遭い、復旧が遅れた。
 「待ってられへん」
 復興を急ぐ商工業者は次々に、大阪の淀川局から自腹で電話線を引いた。当時の企業広告には「淀川局」と「尼崎局」の二つの電話番号が並んでいるケースが多い。
 市全域が大阪局に編入したのは1954年。ダイヤル式になった1962年、初めて市外局番ができ、尼崎は大阪と同じ「06」になった。
 「ですから、06は尼崎の高度経済成長を支えた誇るべき歴史なんです」と担当者。

 アマが大阪市だったなんて、とんでもない。工都を支えた民の執念に、尼崎の底力を見た。

(2008年の連載から紹介しました)

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