<連載>御影駅前「なだ番」から世界へ・ハルヤマシタの挑戦(1) 原点 野心胸に居酒屋で独学

2022/06/03 15:35

「HAL YAMASHITA」オーナーシェフの山下春幸さん=2021年4月、東京都港区赤坂9(撮影・吉田敦史)

 阪神御影駅のすぐ南に、昭和レトロなカラオケラウンジと並び建つ居酒屋がある。屋号は「なだ番」。創業者の息子、山下春幸さん(52)はこの厨房(ちゅうぼう)で料理人としての第一歩を踏みだし、東京進出を経て2010、12年、世界の料理人が腕を競う美食の祭典「ワールド・グルメ・サミット」で最高賞に輝いた。厳選した食材の味を最大限引き出す「新和食」という分野を切り開き、現在は米国とシンガポールでもレストランを経営。世界を股に掛けるトップシェフに、原点となった御影時代のエピソードや転機を振り返ってもらう。(文中敬称略)  関連ニュース <連載>御影駅前「なだ番」から世界へ・ハルヤマシタの挑戦(6) 新展開 業界巻き返しの先頭に <連載>御影駅前「なだ番」から世界へ・ハルヤマシタの挑戦(5) 新和食 素材生かす究極の「引き算」 <連載>御影駅前「なだ番」から世界へ・ハルヤマシタの挑戦(4) 試練 重鎮にも貫いた料理哲学

(井上太郎)
■海外料理に憧れて
 「なだ番」は山下が中学生のときに父が脱サラして開いた居酒屋だ。「『炉端焼き』の方が聞き慣れているぐらいで、『居酒屋』なんていう業態はまだまだ珍しい時代。なんかめちゃくちゃモダンな料理屋をするんだなと思った」と、山下は振り返る。
 両親が居酒屋で遅くまで働くようになり、山下は祖母と2人きりで夕食を取ることが多くなった。菜っ葉の煮物に、肉じゃがに。祖母の手料理は好きだった。別に不満はなかったが、山下少年が自ら台所に立つことも徐々に増えていった。
 「祖母の料理、味は本当に良かった。でも、ハイカラなものはあまり作れなくて。子どもながらに、ハンバーグとかエビフライって憧れますよね。それで、自分が食べたいと思ったものを自分で作り始めたんです。テレビを見てまねごとして」
 「覚えてるのは『ビーフストロガノフ』。ハヤシライスとの違いって何なんだろうと。すごい不思議に思ってテレビを見ていたら、どうやらバターとご飯が合うらしいと。料理番組の海外特集が好きで、特によく見ていた。フランス料理なんて、当時食べたことも見たこともないから、わくわくしてね」
 外国の食文化に関心を抱きやすかったのは、幼少期に暮らした環境が影響しているようだった。通っていた東灘小学校には同学年に当たり前のように外国人の子がいて、近所にもフランス人の家族が住んでいた。
 「神戸は異文化が混じっているのがデフォルトだから。そのおかげで、海外の食にも興味を持ち始めたんだと思う」
■満を持した「新メニュー」
 まわりの子どもたちが野球選手やサッカー選手のユニホームに憧れるのと同じように、テレビ画面に映るシェフコートに憧れ、料理好きの少年に育った山下。高校生になると「なだ番」でアルバイトに入った。拭き掃除、掃き掃除に始まり、忙しくなるとイモの皮をむいた。次第にカウンターに立ち、調理もするようになっていった。
 山下は料理人への憧れを抱いた。だが、父は「いろんな世界を見てからでも遅くない」と、山下が料理学校に入ることには反対した。遠回りだとは思いつつ大阪芸術大を卒業し、外食事業部のある大手飲料メーカーに就職。3年ほど店舗運営の経験を積み、退職した後、1年間はアメリカや香港のレストランで働いた。
 なだ番に戻ってきたのは20代後半。店は相変わらずはやっていたが、仕事に物足りなさも感じ始めた。「自分で考えた新しいメニューを出したい」「洋食のようなものを作ってみたい」。「世界で通用する料理」を意識するようになった山下には、そんな気持ちばかりが膨らんだ。
 ある日、いつもは父が接客する常連客に1人で対応したことがあった。たまたま父がいなかったので、「2代目に任せるわ」と常連客に言われたのだ。山下の腕が鳴った。
 「さあうまいもの作って出してやろうと、その一心でね。しょうゆ、みりん、酒を使って、カルパッチョ風の刺し身にして出しました。間違いなくおいしいはずだと、自信を持って」
 ところが、客は一切れ食べただけで箸を置いた。
(次回に続く)

→「東灘区のページ」(https://www.kobe-np.co.jp/news/higashinada/)

神戸新聞NEXTへ
神戸新聞NEXTへ