姫路

  • 印刷
空襲体験を語り継ぐ田路信一さん。3日の講演を最後に、語り部を引退する=姫路市広畑区
拡大
空襲体験を語り継ぐ田路信一さん。3日の講演を最後に、語り部を引退する=姫路市広畑区

 1945(昭和20)年の姫路空襲を経験し、その語り部として約20年間、兵庫県姫路市内を中心に伝承活動に取り組んできた田路信一さん(89)が、3日の講演を最後に引退する。「ずっと同じ話を続けてきた。伝えたい気持ちは尽きないが、記憶がしっかりしている間に身を引こうと決めた」と最後の講演に思いを込めるつもりだ。

 姫路空襲は2回にわたる。1回目は45年6月22日午前、川西航空機姫路製作所を中心に国鉄京口駅付近に無数の爆弾が落とされた。2回目は7月3日深夜~4日未明、市街地が焼夷弾攻撃を受けた。計514人が犠牲となり、1万戸以上が全焼した。

 田路さんは44年4月、15歳で川西航空機に養成工として入社。45年4月からは部品の検査工として戦闘機生産に携わった。

 「6月22日の朝は蒸し暑かった」。体に染み付いているというあの日の記憶は生々しい。午前9時ごろ、出勤直後に鳴り始めた警戒警報は空襲警報に変わった。養成工や学徒は東側の市川に逃げるように指示が飛んだ。

 工場の周りは田んぼに囲まれ、普段は人通りもまばら。その日の市川は身動きが取れないほどの人だった。「子どもを連れたり、大きな荷物を持っていたり、河原目掛けて歩く人が波のようだった」と振り返る。

 爆弾を抱え、下降しながら上空を飛ぶ6機編隊のB29爆撃機。爆弾が落とされたのと同時に、レンガのくずや鉄の破片が飛び散った。約2時間の爆撃で広い工場は全て焼け、空は真っ赤と真っ黒が混ざり合ったような色だった。

 「血を流す人、足や手を失った人がいっぱい。体が震え、立ち上がろうとしても力が入らなかった」

 暮らしていた寮は焼け残ったものの、食べ物は手に入らず、空襲後は防火用水などを飲んで飢えをしのいだ。「口では表現できない暮らしだった。それでも生きていてよかった」。体験談は約2時間に及ぶが資料を見ることはない。

 これまでに行った講演は200回を超える。聴講者は地元の小学生や当時の同僚の親族、外国人など延べ2万人以上に上るという。最後の講演を前に田路さんは「物の大切さや家族、友達との助け合いの大切さを感じてほしい」と話す。

 同市西延末の市平和資料館で午後2時から。同館TEL079・291・2525

(谷川直生)

姫路の最新
もっと見る

天気(11月18日)

  • 18℃
  • 11℃
  • 10%

  • 18℃
  • 7℃
  • 20%

  • 19℃
  • 10℃
  • 10%

  • 19℃
  • 9℃
  • 10%

お知らせ