姫路

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姫路城の「昭和の大修理」の記憶をたどる西村吉一さん。当時を知る関係者は今や少ない=姫路市本町、市立城郭研究室
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姫路城の「昭和の大修理」の記憶をたどる西村吉一さん。当時を知る関係者は今や少ない=姫路市本町、市立城郭研究室
昭和の大修理で素屋根の一部が撤去され、姿を現した大天守(姫路市立城郭研究室提供)
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昭和の大修理で素屋根の一部が撤去され、姿を現した大天守(姫路市立城郭研究室提供)
昭和の大修理では、素屋根に覆われた大天守に麓から桟橋がかかった(市立城郭研究室提供)
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昭和の大修理では、素屋根に覆われた大天守に麓から桟橋がかかった(市立城郭研究室提供)
姫路城「昭和の大修理」で交換された巨大な西大柱(市立城郭研究室提供)
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姫路城「昭和の大修理」で交換された巨大な西大柱(市立城郭研究室提供)

 世界文化遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)が「平成の大修理」(2009~15年)を経てグランドオープンしてから3月で5年を迎えた。毎年150万人を超える観光客が訪れ、世界的な知名度が高まる一方、約60年前に行われた「昭和の大修理」(1956~64年)の詳細を記憶する関係者は減りつつある。令和となった今、文部技官として大修理に携わり、当時を知る数少ない証人となった西村吉一さん(88)=姫路市=に昭和の大事業を振り返ってもらった。

 平成の大修理ではしっくいの塗り替えや瓦のふき替えが行われ、築城当時の姿が現代によみがえった。それでは昭和の大修理はどんな工事だったのか。西村さんは「平成とは全く違うもの。重機もない中、全部解体して人間の力で造り直した」と力を込める。

 実際にそのプロセスは途方もないものだった。城の麓から桟橋を渡し、約1万2千本のヒノキで組んだ素屋根(足場)で大天守を包む。大天守の地下を掘り起こしてコンクリートの土台を敷き、巨大な心柱を交換。ばらした部材を下ろして修理した後、改めて組み直した。

 西村さんが任されたのは大天守北側の「東小天守」と、それに接するイとロの渡櫓。「乾小天守」や「西小天守」もほぼ同い年の技官が担当し、それぞれ20人ほどのチームをつくった。当時まだ20代だった西村さんは全国から集まった職人たちを束ね、測量から解体、組み立てまでを指揮した。

 「若くて何も知らんかったから、逆に怖がらずやれたのかもしれん。東小天守は鬼門(北東)やったから風でよく壁が落ちて、そのたびに工事主任から『左官を指導してない』と怒られた」と懐かしむ。

 自身は三重県の出身。文化庁が扱う寺院修理の仕事で全国を回り、姫路城には大天守の解体が始まる直前の1957年に着任した。担当した寺の多くが室町時代以前の建立だったのに比べ、戦国以降に発展した城郭建築は「技術屋にとって少し格が下がると思っていた」と明かす。

 それでも城を構成する木材1本1本に関わるうち、「この大きな図体の骨組みが、どんな建物より緻密にできている」と価値の高さに気付いた。その間に工事の様子を収めた写真の数々は後にデジタル化され、城郭建築をひもとく第一級の資料として姫路市立城郭研究室に保存されている(同研究室のホームページで閲覧可能)。

 大修理完了後は同市職員となり、城管理事務所などで勤務しながら城の保全に携わり続けた。平成の大修理を経て一大観光地となっていく姿も見守ってきた。

 西村さんは「そもそも石垣の上に建物を置いた城郭は構造的に不安定」と指摘。「城ブームは理解できるが、入城者の増加で負荷はかかり続けている。観光と文化財保護は背中合わせということを知ってほしい」と訴える。(井沢泰斗)

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