姫路

  • 印刷
被爆体験とともに平和への思いを語る原田泰さん=太子町内
拡大
被爆体験とともに平和への思いを語る原田泰さん=太子町内

 広島への原爆投下から6日で75年。「揖保郡太子町原爆被爆者の会」で会長を務める原田泰さん(79)=兵庫県太子町=はあの日、爆心地から約9キロ離れた当時の自宅付近で「黒い雨」を浴びた。放射能の影響が出るのか、出ないのか。今なお不安と隣り合わせの日々を生きる。原爆は一瞬で多くの命を奪い、生き残った人を長く苦しめる。「核兵器の保有、拡散は絶対に許してはいけない」。核なき世界を願い続ける。(安藤真子)

 原田さんは1941年、広島県安佐郡伴村(ともむら)(現・広島市安佐南区)に生まれた。被爆したのは4歳の頃だが、45年8月6日の記憶は鮮明に残る。

 朝、疎開のために身を寄せていた年上の女の子が広島市内の学校へ登校するのを見送り、納屋の2階で過ごしていた。「ピカッ」と金色の光が差し込み、反射的に窓の外に目を向けると、雲がちぎれていくのが見えた。ほぼ同時に、腹の底に「ドン」と音が響いた。

 自宅の障子の桟が飛び、隣家の窓ガラスが割れた。もくもくと立ち上るきのこ雲は「灰黒色に金色を足したような」色だった。見とれていると、雨が降り始めた。

 初めて目にする黒い雨粒。珍しさに外へ飛び出すと、母親に叱られた。本能的に異変を察知したのだろうか。「絶対にこの雨にだけはおうたら(ぬれたら)いけんよ」。いつになく強い声だった。浴びたのは短時間だったものの、全身がぬれた。

 脳裏にこびりついている光景もある。ひどいやけどを負い、伴村で静養した被爆男性の姿だ。

 近隣家族の親戚で、母親に連れられて見舞いに訪れると、男性が体を起こした。だが、少し動くだけで乾いた傷が割れ、血がにじみ、流れた。傷口にはうじ虫がはっていた。このときの異臭を、原田さんは「かいだことのない、怖さのにおいだった」と表現する。男性は間もなく亡くなった。6日朝に見送った女の子も、戻りはしなかった。

     ◇

 原田さんは広島県の高校を卒業し、富士製鉄広畑製鉄所(当時)への就職を機に太子町に移り住んだ。原爆で家族5人は無事だったが、兄弟や母親とも被爆の話をすることはなかった。

 「何となく話すタイミングがなかった」と原田さん。だが、75年が過ぎても核の脅威は消えていない。それどころか核大国は、核戦力の増強を続ける。「語れる被爆者が減る中、核をなくすために機会があれば話したい」と神戸新聞の取材に応じた。

 結婚後、被爆者健康手帳を取得した原田さんは年1回の検診を欠かさない。結果に問題がなければ、「これでまた1年頑張れる」と安堵(あんど)する。

 今年は大きなニュースもあった。7月29日の広島地裁判決だ。

 黒い雨を浴びたのに、国の援護対象区域外だったことを理由に同手帳の交付申請を却下したのは違法として、広島県内の男女84人(死亡者含む)が広島市と県に処分取り消しを求めた訴訟で、原告側が全面勝訴した。節目に示された初の司法判断。原田さんは「被爆者に境界線はない。同じ被爆者としてうれしかった」と話す。

 かつて約20人を数えた揖保郡太子町原爆被爆者の会のメンバーは4人にまで減った。存続が瀬戸際にある今、あらためて強く思う。

 「無条件に戦争はだめ。あんな思いを後世の人にはしてほしくない」

姫路の最新
もっと見る

天気(9月28日)

  • 26℃
  • ---℃
  • 20%

  • 24℃
  • ---℃
  • 30%

  • 27℃
  • ---℃
  • 0%

  • 27℃
  • ---℃
  • 20%

お知らせ