姫路

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これまでの歩みを振り返る大西靖生さん(左)と大西秀彦さん=大阪市内      
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これまでの歩みを振り返る大西靖生さん(左)と大西秀彦さん=大阪市内      
体操の教員だった大西要校長による実技(大西さん提供)    
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体操の教員だった大西要校長による実技(大西さん提供)    
大西一家の記念写真。後列左が要校長、同中央がきよさん。靖生さんはまだ生まれていなかった(大西さん提供)
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大西一家の記念写真。後列左が要校長、同中央がきよさん。靖生さんはまだ生まれていなかった(大西さん提供)

 6月22日の正平調で、天皇皇后陛下の写真「御真影(ごしんえい)」を姫路空襲から守ろうとして爆死した城陽国民学校(現城陽小)の大西要校長を紹介したところ、親族から神戸新聞社に連絡があり、四男靖生(やすお)さん(78)が大阪府枚方市で健在と分かった。大阪市内で取材に応じた靖生さんから、家族のその後と父への思いを聞いた。(田中伸明)

 靖生さんは、大西校長の兄の孫に当たる大西秀彦さん(78)=東京都=からの連絡で正平調への掲載を知った。「75年たっておやじが会いに来たのかなと思った」と振り返る。

 靖生さんらによると、大西校長は黒田庄村(現兵庫県西脇市)の生まれ。神戸の御影師範学校を出て、体操の教員資格を得た。古市小(同県丹波篠山市)などで校長を務め、城陽校には1944(昭和19)年に赴任した。

 45年7月3日深夜の姫路空襲時は、部下と学校で宿直中だったという。御真影を奉安殿から取り出し、背負って避難させる途中、焼夷(しょうい)弾の直撃を受けた。48歳の働き盛りだった。

 3歳半だった靖生さんは、母きよさんに背負われて疎開先から駆け付けた。残っている父の記憶はごくわずか。怒った時の顔がすごかったことと、亡くなった父の手の皮膚が「ちくわ」みたいだったこと。死の意味さえ分からなかった。

 きよさんは戦後、4人の息子を育てた。晩年の手記によると、大学に進ませたいという夫の遺志をかなえるため「慣れぬ行商をいたし、歯をくいしばった」という。そのかいあって、長男昭典さんは大阪高商(現大阪市立大)、次男恒康さんは東北大、三男正興さんは早稲田大、靖生さんは京都大を卒業した。

 空襲下の学校長は、御真影や教育勅語の謄本を第一に守るよう定められた。大西校長の死は「殉職」とされたが、一方で終戦後、各校の御真影はひそかに回収され、焼却された。

 きよさんは夫の「殉職」をどう受け止めたか。手記には「立派な校長先生だった」とのみ息子たちに言い聞かせたとつづる。一方でこんな本音も漏らす。「主人の歩いて来た道があまりにも可哀想(かわいそう)なので」。そのきよさんは92年、明石市で88歳の生涯を閉じた。

 靖生さんは父の死をこう振り返る。「(御真影を)守りたかったのは、それ以前の学校内外での言動に対し、責任を取ったのではないか。そのように感じ、父を誇りに思います」

 当時の教員の多くは、自身の理想と、国の推進する軍国教育のはざまで苦悩していたのではないか。軍事一色の教育は、教員だけの責任ではないとみる。

 「強い国家や国威の発揚は、貧しさなどの欲求不満のはけ口として、国民の側が求めた結果ではないか」

【学校の空襲被害】姫路市史によると、姫路空襲によって国民学校(現在の小学校)は城東・野里・東・城巽・城南・船場・城陽・手柄の8校が全焼した。児童の被災も相次ぎ、45年6月の空襲では東の十数人が死亡。7月の空襲でも城巽の5人が亡くなり、手柄でも6年生の女児が避難途中に焼夷弾を受けて命を落とした。ほかにも姫路高等女学校、鷺城中、女子商業学校、城南幼稚園などが被災した。

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