姫路

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姫路空襲の爆撃中心点に足を運んだ工藤洋三さん。「どこが空襲の標的となったのか、後世に分かるよう街の中に残す取り組みがあってもいいのでは」=姫路市二階町
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姫路空襲の爆撃中心点に足を運んだ工藤洋三さん。「どこが空襲の標的となったのか、後世に分かるよう街の中に残す取り組みがあってもいいのでは」=姫路市二階町
空襲に遭いながら姫路城はなぜ残ったのか。戦後、明らかになったさまざまな証言が報道された
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空襲に遭いながら姫路城はなぜ残ったのか。戦後、明らかになったさまざまな証言が報道された

 1945年7月4日朝。未明までの空襲で焼け落ちた市街地の中、姫路城の天守はいつもの姿をとどめていた。なぜ無事だったのか。市民がずっと関心を寄せるテーマだ。

 全国では国宝に指定されていた天守のうち、六つが空襲によって焼失している。米軍資料の解析を続ける工藤洋三さんに依頼し、空襲の回数が突出して多かった名古屋(名古屋城)、原爆が投下された広島(広島城)を除く4カ所の天守について、爆撃中心点からの概算距離を計測してもらった。

 大垣城(岐阜県)200メートル、和歌山城400メートル、福山城(広島県)600メートル、岡山城900メートル。空襲の規模や地理は異なるが、850メートルだった姫路城と同程度でも炎にのまれている。

      ◇   ◇

 兵庫・姫路では戦後、「米軍は城の文化的価値を理解して標的から外した」とうわさされた。だが工藤さんは「焼夷(しょうい)弾による攻撃に文化財かどうかは無関係。ひとえに燃えやすさが判断を分けた」とする。事実、70年代から米軍資料の開示が進んだが、文化財への特別な配慮を裏付ける記述はなかった。

 95年には姫路空襲に加わったB29爆撃機の元機長アーサー・トームズさんらが姫路を訪れ、「城への攻撃を回避せよとの指示はなかった。城の存在すら知らなかった」と証言している。

 米軍資料には目標都市ごとに偵察機が撮影した写真が必ず添付されている。家屋の密集度や道路幅を分析し、燃えやすい場所から1~3号の焼夷区画に分けるなど周到に準備が行われた。

 堀に囲まれ、広場などのスペースも多い城郭は通常、最も燃えにくい3号区画だという。工藤さんは指摘する。「姫路城の焼夷区画は不明だが、積極的な攻撃対象でないのは明らか。ただし、城の東西に広がる住宅地まで火災を広げるため、爆撃中心点が城寄りになった。結果的に天守が焼失する可能性は十分あった」

 実際、天守直近の鷺城(ろじょう)中学は焼けている。姫路市立城郭研究室の工藤茂博学芸員(56)は、こんな考えも示す。かつて武家屋敷が並んだ城のすぐ南側は明治期に陸軍の施設となり、民家が密集することがなかった。それが「爆撃中心点を天守から遠ざけ、延焼を免れる背景となったのでは」とみる。

 姫路城の巨大な縄張りの名残が天守を救った。そんな見方もできそうだ。

      ◇   ◇

 今も裏付けは得られないままだが、2006年、ある男性の証言が姫路城の強運を際立たせる逸話として注目を集めた。姫路中部第46部隊で不発弾処理の専門将校だった男性は1945年7月4日、「姫路城内に不発弾がある」と知らされ、天守最上階の南側で1発の焼夷弾を発見。部下と外へ運び出し、無事に処理したという。

 この男性やトームズさんから体験談を直接聞いた姫路空襲の語り部、黒田権大さん(91)は述懐する。「2人は城が残ったのは奇跡、神の意志と言った。やはりそうとしか言いようがないんです」(小林良多)

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