姫路

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爆撃を振り返る福岡博之さん。苗代(写真奥)で作業していた祖母橋本ツルさんが犠牲になった=姫路市夢前町前之庄
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爆撃を振り返る福岡博之さん。苗代(写真奥)で作業していた祖母橋本ツルさんが犠牲になった=姫路市夢前町前之庄
空襲で亡くなったと記された橋本ツルさんの除籍謄本
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空襲で亡くなったと記された橋本ツルさんの除籍謄本
橋本ツルさん(遺族提供)
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橋本ツルさん(遺族提供)
神戸新聞NEXT
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 戦後75年がたち、忘れ去られた空襲がある。太平洋戦争末期の1945年6月22日、1回目の姫路空襲と同じ日に、旧飾磨郡鹿谷(かや)村(現兵庫県姫路市夢前町)前之庄の山麓に1発の爆弾が落ちた。近くで農作業をしていた当時57歳の女性が即死し、親族2人が負傷。だが、戦後の合併を経て鹿谷村の被災記録は残らず、記憶の風化が進む。女性の孫の福岡博之さん(84)=同市=は「市街地に比べたら小さなこと。でも、なかったことにはしたくない」と複雑な心境を吐露する。(井上太郎)

 あの日、梅雨らしからぬ青空が広がっていた。

 当時国民学校4年生だった福岡さんは、自宅のそばの苗代で、祖母の橋本ツルさん=当時(57)、母とらゑさん=当時(30)、いとこのお姉さんと4人で苗を取っていた。昼食前の午前10~11時ごろだった。

 東の空から、航空機が低く飛んでくるのが見えた。「日本の飛行機や」といとこが言う。不思議に思った直後、何か黒い塊が落ちてきた。慌てて伏せる。「ドカアン」と激しい音がし、石と砂が背中に雨あられと降り注いできた。わずか30秒ほどの出来事だった。

 「私の手えこんななってもうた」。顔を上げると、いとこの左手の小指がえぐられていた。「次が来る」と急いで水路に身を潜めた。

 一発限りの爆弾はすぐ近くの裏山に落ちていた。距離にして50メートルもない。

 祖母は即死だったと後から聞いた。爆弾の破片が心臓を直撃し、中腰で苗を取る格好のまま絶命していたという。母は石が貫通したのか、右脚に大きな穴が空いていた。父が荷車に布団を敷き、村の医院まで連れていった。

 爆風で、自宅の窓ガラスや障子も吹き飛んだ。屋根瓦の上には、ぎざぎざの爆弾の破片が散乱していた。

     ◇

 播但線京口駅近くの川西航空機姫路製作所が標的となった姫路空襲は、6月22日午前9時50分ごろに始まったとされ、日時はおおむね合致する。15キロ離れた農村まで旋回した理由は不明だが、福岡さんは「余った爆弾を落としたのでは」と推測する。ツルさんの除籍謄本には「空襲ニ因(よ)リ死亡」と記された。

 「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」によると、米軍の作戦任務報告書にこの爆撃を裏付ける記述はない。姫路市平和資料館に旧飾磨郡の被災記録は残らず、「太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会」の姫路空襲の戦没者名簿(2回で計約290人分)にもツルさんの名前はなかった。

 とらゑさんも爆撃のことをほとんど語らず、77歳で他界した。福岡さんは、空襲の犠牲者を再調査する他市町の取り組みを知り、姫路市に掛け合ってみたが、新たに姫路空襲の戦没者名簿に加えるのは「難しい」との回答だったという。

 ツルさんは当時、次男と暮らす神戸市から故郷の宍粟郡富栖(とみす)村(現姫路市安富町)に疎開中だった。福岡さんの記憶では、ツルさんに会ったのは数回だけだが、干しバナナを食べさせてくれる優しいおばあちゃんだった。「のどかな農村にも、思わぬ戦争の爪痕があったことを忘れないでほしい」

【姫路空襲】太平洋戦争末期に姫路の市街地が壊滅的な被害を受けた2回の空襲。1945年6月22日午前、川西航空機姫路製作所を標的とした爆撃の死者は341人に上ったとされる。同7月3日深夜から4日未明にかけては、焼夷(しょうい)弾による無差別空襲で当時の市総人口の約4割が被災。173人が犠牲になったという。

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