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世界初のビーチサンダルを手にする内外ゴムOB会会長の相川征四郎=明石市
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世界初のビーチサンダルを手にする内外ゴムOB会会長の相川征四郎=明石市
長田区に創業した当時、本社周辺は農地だった(内外ゴム提供)
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長田区に創業した当時、本社周辺は農地だった(内外ゴム提供)
パスティン氏が作製した木型。鼻緒が当たる部分の切れ込みが分かる(内外ゴム提供)
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パスティン氏が作製した木型。鼻緒が当たる部分の切れ込みが分かる(内外ゴム提供)
ビーチサンダルを世界で初めて開発した生田庄太郎(左)とレイ・パスティン(内外ゴム提供)
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ビーチサンダルを世界で初めて開発した生田庄太郎(左)とレイ・パスティン(内外ゴム提供)

 夏場、日本いや世界中の人々が愛用するビーチサンダル。その第1号が戦後間もない神戸市長田区で作られた。手掛けたのは米国の工業デザイナー、故レイ・パスティンと、当時、同区に本社を置いた内外ゴム(現・明石市)の技師長だった故生田庄太郎。原型となったのは日本の緒付き履物(草履やげた)だった。パスティンと生田の共同開発により、世界初のビーチサンダル「ビーチウォーク」がこの世に生み出された。長田から世界を席巻した、ビーチサンダルの誕生秘話に迫る。(西竹唯太朗)

 ビーチサンダルの誕生は終戦直後にさかのぼる。GHQが進めていた戦後の復興事業で来日していたパスティンは、日本人が履いていた草履やげたに強い興味を抱いていた。

 「気軽に履ける草履にマネーチャンスを見いだしたのでは」。同社OB会会長の相川征四郎(67)=明石市=は想像する。

 パスティンは帰国するも、3年後の1951年にゴム草履の商品化を夢見て再来日。東京などの複数のゴム製造会社に企画を持ち込んだが、数年前まで戦争をしていた敵国、引き受けてくれる会社はなかった。

 あきらめかけていた時、訪れたのが内外ゴムだった。当時技師長をしていた生田がその提案を受諾した。生田は同年、防水性に優れた特殊スポンジ「独立気泡スポンジゴム」を発明。「(パスティン考案の)ゴム草履に試してみたい」。両者の思惑が一致した。

 同スポンジはゴム内の気泡が一つずつ独立しており、浸水しにくい。また、天然ゴムを多く含んだソール(底の部分)は耐久性に優れ、すり減りにくいのが特長だ。「ビーチサンダルの材料としてはぴったりだった」と相川。こうして二人三脚の挑戦が始まった。

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 同年暮れ、第1号試作品が完成した。しかし…。ここで2人は大きな問題に気付く。日本の草履やげたは左右同じ形をしているのが一般的。この形を基本に作ったところ、日本人にはフィットしても足の形状が致命的に異なる外国人には合わない。「実際にパスティンが履いてみて、『うまく履けない』となったらしい。足の甲も指の長さも日本人とはまったく違うからね」と相川は説明する。

 その後、鼻緒を細くしたり、外国人の足を模した木型を作ったり…。徹底研究を重ねた末、52年についにビーチウォークが誕生した。53年にハワイやグアムへの輸出を開始。ハワイでは1カ月で10万足を販売した。兵庫ゴム工業史には次のような記述が残る。「(米国輸出で)一大センセーションを巻き起こした」。

 一方、日本人向けに改良した「ブルーダイヤ」を55年に販売。登場から63年となるが、製法やデザインは当時から不変で、今も多くの日本人に履き続けられている。(敬称略)

【内外ゴム】ケミカルシューズをはじめ、ゴム産業の工場が集積する長田区。内外ゴムは1913(大正2)年に同区菅原通に創業した。69年に明石市に本社を移転。現在は自動車用タイヤチューブの国内製造を唯一手掛けるほか、地震感知器や加速度センサーなどを製造。ゴム製ソフトボールのシェアは50%を超える。

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