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地震発生時刻に、犠牲者へ祈りをささげる住民ら=17日午前5時46分、神戸市東灘区本山中町4(撮影・藤家 武)
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地震発生時刻に、犠牲者へ祈りをささげる住民ら=17日午前5時46分、神戸市東灘区本山中町4(撮影・藤家 武)
慰霊碑に手を合わせる中村孝さん(右端)と母親の勇子さん(手前)ら=17日午前6時34分、神戸市東灘区本山中町4(撮影・藤家 武)
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慰霊碑に手を合わせる中村孝さん(右端)と母親の勇子さん(手前)ら=17日午前6時34分、神戸市東灘区本山中町4(撮影・藤家 武)

 阪神・淡路大震災で40人以上が命を落とした、神戸市東灘区本山中町4丁目。戦前からの地域のシンボル「国道地蔵尊」の一角に慰霊碑が建てられたのは、平成も終わろうとする、昨年4月のことだった。慰霊碑のなかった街で、震災25年の年に、初めて追悼の集いが開かれた。

 夜明け前。碑の後ろには42人の犠牲者名が掲げられていた。「これで全てかは分かりません」。碑を建てた国道地蔵尊奉賛会の大町真由美さん(72)が集まった人に語り掛ける。本山中町の中でも、自治会のない4丁目には、震災で亡くなった人の記録がなかった。当時の報道を調べ、聞き取りを重ねた現在までの数字が42人だ。

 午前5時46分。鐘が鳴り、ろうそくの灯火が揺れる。静寂が辺りを包み、20人余りが黙とうをささげる。その中に遺族の姿もあった。

 中村勇子さん(84)と長男の孝さん(55)。勇子さんの夫の母うめのさん=当時(91)=は、古い長屋で寝ていて、がれきの下敷きになった。手の出しようもなく一昼夜が過ぎ、近くの公園に避難していた人たちが助け出してくれた。

 「とにかく元気で、外を出歩き、話をするのが好きでした」。大きなけがはなかったが、震災の2年前から透析を受けていた。寒さで肺炎も患い、大阪の入院先で2月に亡くなった。

 「『ようしてもうた。おおきに』。それが最後の言葉になりました」

 画家の義父=当時(92)=を亡くした女性(79)は数珠を手に、静かに目を閉じた。震災の前日、長男が結婚の報告をした。「きっと喜んでいただろう。震災がなければ、ひ孫の顔も見られたのに」と無念さをにじませた。

 隣の宮地病院の患者も、手を合わせに訪れた。震災で全壊し、当直の女性看護師=当時(24)=が犠牲となった病院では、ロビーに当時の写真を展示していた。植え込みの陰には花束とリンゴを、誰かがそっと供えていた。

 街を離れた遺族もいた。長男伸也さん=当時(22)=と義父定一さん=当時(89)=を失った三野澤美さん(72)。早期の生活再建のため神戸市北区に移ったが、当時の住まいは空き地のまま残している。「年を取っても元気にしてるよ。安らかに眠ってね」。碑を見つめ、ほほ笑んだ。

 村上健太さん(39)=大阪市=は幼いころ、ここで祖父母の明さん=当時(68)、寿美子さん=当時(67)=と過ごした。「結婚すると報告したかった」。婚約者と初めて一緒に被災地で冥福を祈った。

 午後4時。「仕事終わりで来る人がいるかもしれへん」。奉賛会の山田美代子さん(76)は、日が傾いても、片付けかねていた。

 「覚えててくれたのが、うれしくて」「もっと早く建ててあげられたら」。涙と笑顔の再会があった。

 「来年も続けないかんね」と大町さんと山田さん。震災から25年を経て、街に語り継ぐ場ができた。(田中真治、篠原拓真)

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