村上春樹の作品には、主人公の「僕」が料理をする場面がしばしば登場する。
〈玉葱(たまねぎ)と醤油(しょうゆ)をつかってさっぱりとしたステーキを焼き、野菜サラダを作った。豆腐と葱(ねぎ)の味噌(みそ)汁も作った。気持ちのよい夕食だった〉(「ダンス・ダンス・ダンス」)
料理がうまいのね、と言われて、彼は「ただ愛情を込めて丁寧に作っているだけだよ」と答える。それは「姿勢の問題」だという言葉が、トアロード(神戸市中央区)を歩きながら思い出された。
神戸北野ホテル(同市中央区山本通3)の総支配人・総料理長の山口浩さん(60)に、どうしてトアロードを活躍の場に選んだのか聞いてみた。
大阪生まれの山口さんは18歳で料理の世界へ入り、フランスの三つ星「ラ・コート・ドール」で巨匠ベルナール・ロワゾーに師事。神戸店開業のために帰国したが、3年後、阪神・淡路大震災で被災した。
再び神戸でレストランを作りたい-。そう考えていた時、同じく被災した同ホテルから声が掛かった。
だが、心の中には迷いがあったという。「料理人の経験はあるが、経営者としては素人」。決めあぐねたある日、ホテル前のバス停に腰掛け、ぼんやりと被災した建物を眺めた。
そこで見たのは、ホテルの前で足を止め、記念写真を撮る人々の姿。「地元の人にも観光客にも愛されていたのだ」と痛感し、再起の場所に決めた。
「ハイカラ文化を象徴するトアロードで舌が肥えた市民に認められれば、世界に通じると思ったのです」
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トアロードでは同ホテル再生の2年前、1998年に、旧北野小学校が「北野工房のまち」(同市中央区中山手通3)としてよみがえった。
震災に耐えた貴重な戦前の鉄筋コンクリート校舎には、神戸ブランドの職人の技が集まる。神戸ビーフ専門店の「旭屋」は、山口さんも行きつけだ。
「旭屋のハンバーグを朝に焼いて、サンドイッチにするのが好きなんです」。そんな言葉に、旭屋の新田滋代表は「自分で作った方がおいしいでしょうに…」と恐縮しながらも、笑顔をみせる。
ホテルの料理の神戸ビーフも、旭屋から仕入れる。「肉の部位ごとの特徴を新田さんに教えてもらうこともあります」
神戸マイスターでもある日本フレンチ界の名シェフが愛するハンバーグ。その美味をぜひ、小説の中でも楽しんでみたい。(伊田雄馬)
