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姉のために作った髪飾りを手にする藤本真弓さん。来年、自分も着ける予定だ=赤穂市
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姉のために作った髪飾りを手にする藤本真弓さん。来年、自分も着ける予定だ=赤穂市
姉のために作った髪飾りを手にする藤本真弓さん。来年、自分も着ける予定だ=赤穂市
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姉のために作った髪飾りを手にする藤本真弓さん。来年、自分も着ける予定だ=赤穂市
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 1977(昭和52)年1月に始まった「ふれあい」は、多彩な顔ぶれの投稿と楽しみにしてくださる読者に支えられてきました。掲載40回を超える“常連さん”や、中学時代から投稿を続ける女子大生、父と娘の2世代にわたり引き継がれる投稿もあります。ふれあいゆかりの人たちを紹介します。

【森美智子さん 神河町 80歳】

▼震災の年から

 「ふれあい」は、どんな人がどんなことを書いているのかと楽しみなコーナーの一つです。

 初めて投稿したのは、1995年3月10日(58歳)のことでした。神戸新聞が、阪神・淡路大震災で1日とて新聞を休刊しなかったという報道に感動のあまり、ペンを執りました。それ以来、投稿にやみつきになり、現在に至っています。

 ふれあいのほか、「発言」や文芸欄などに掲載されると、切り抜いてノートに貼っています。大学ノートは11冊目になりました。

 そこで40年を迎えたふれあいに一体何回掲載されたのだろうかと調べました。何と44回でした。よくもまあこれだけ書けたものだと我ながら感心せずにいられません。

 ちらちらと読み返すと、幼かった孫のことや、今は亡くなった夫と娘のことも書いており、涙がにじみました。11冊は本棚に並べているのですが、読み直したいと思います。

■投稿をまとめ「自分史」に

 「あのがれきの街で、よくやられたと感激で胸いっぱいでした」と話すのは、神河町の森美智子さん(80)。最初の投稿は1995年3月。阪神・淡路大震災発生がきっかけだった。58歳から投稿を続け、これまでに44本が紙面を飾った。

 思い入れがある作品の一つが、父との思い出を記した「赤い筆箱」(今年3月18日掲載)。小学生の頃、父が買ってくれたセルロイド製の筆箱が割れて「線香に火を付けて穴をあけ、糸でつなぎ合わせてつなぎました。父が『物を大事にする子だ』と言っては褒めてくれた」と懐かしむ。「父は私をどこへでも連れて行ってくれた。当時の情景が今も鮮明によみがえります」

 2011年2月に投稿した「足踏みミシン」は、50年以上前に嫁いだ時に一緒にやってきたミシンが、業者に引き取られる話。足踏みから電動に生まれ変わり、今度はベトナムに「お嫁入り」する。「長い間、ありがとう」とミシンへの愛情を込めた。「人の役に立っているならうれしいな」と今も思い出すという。

 ほかにも、骨折で入院したことや、急逝した弟のこと、孫娘からのプレゼントなどをつづった。知人はもちろん、通っている病院でも看護師に「載ってましたね」と言われるのが「うれしいやら恥ずかしいやら」。投稿を読んだ人から神戸新聞を通じて手紙が届くこともあり、現在も数人と文通をしている。

 「ふれあい」などを集め「自分史」と名付けたスクラップ用ノートは11冊になった。「とにかく書くのが大好き。ボツになっても気にしない」。今も次のネタを仕込んでいる。(三宅晃貴)

【藤本真弓さん 赤穂市 大学生・19歳】

▼世界に一つの髪飾り

 私の姉は、1月に成人式を迎えます。一生に一度の晴れ舞台なので、手芸が得意な母と協力して髪飾りを手作りしています。

 母も私も「つまみ細工」は初体験だったので分からないことだらけでした。ちりめんの布やビーズを買いにいろんなお店を回ったり、図書館でつまみ細工の本を片っ端から借りたりして勉強しました。

 今、頭に着けるお花の集まりができて、顔の横に垂れ下がる「さがり」を作っています。ようやく完成が近づいてきました。小さな1枚の布から1枚の花びらが生まれる。それが幾つも重なり、一輪の立体的なお花になる。日本の伝統的な手芸技術の奥深さや繊細さに感動しつつ、楽しい時間を過ごしています。

 世界に一つだけの髪飾り。完成を姉に披露するのが楽しみです。2年後には私もこの髪飾りを着けるので、その瞬間も待ち遠しいです。

=2015年12月4日の投稿=

■紙面通して人とつながる

 初投稿は中学3年の春。ボランティアのためにフィリピンへ向かった姉への励ましと、寂しさの交じる自分の気持ちをしたためた。

 赤穂市の大学2年生、藤本真弓さん(19)は小学生の頃から、文章で自分を表現するのが大好きだった。「ぴったりの言葉が見つかるとすごく気持ちがいいから」と笑う。

 高校時代に体調を崩したが、それでも書きたい気持ちが募り、3年の時に投稿を再開した。姉の成人式のために母と髪飾りを手作りしていること、神社でみこのアルバイトをしたこと。紙面の向こうの人を想像しながら書くことで、心がすっと穏やかになった。

 両親と植えたナスの成長を記した2016年6月の投稿には、翌月、三田市の女性から野菜作りについての“返事”が紙面に寄せられた。「自分の文章に反応があった」と心が温かくなった。「ゆめが叶(かな)った!ありがとう」。これまでの投稿の切り抜きを貼ったノートに書き留めた。これからも「今しか感じられないことを私らしい言葉で伝えていきたい」(貝原加奈)

【中来田朝子さん 淡路市 69歳】

▼あの世でも

 私の父、健一は2009年、98歳で亡くなる1週間前まで机に向かって、何かしら書いていました。若い頃から文学が好きで、戦後は漁業で生計を立てるようになっても、夜や漁が休みの時は机に向かっていました。

 父が書いた「ふれあい」が初めて掲載されたのは1989年。「海の友情」について書き、その後も祖父への思い、孫のこと、また海で出会った人との交流などを書いて投稿していました。

 対話では照れてうまく言えないことも、書くことによって伝えていたのだと思います。

 私は父の書いたふれあいの文面を通して父の思いなどを感じることができました。

 父が亡くなって8年が過ぎましたが、今も時々、父の文章を読み返し、父をしのんでいます。父の棺にはペン、原稿用紙、はがき、封筒、切手、辞書も入れました。あの世でも書きたいだろうと思って。

 「お父さん、今もふれあいに投稿していますか。今度は私のことも書いてね」

■活字から伝わる父の思い

 「ふれあい」に親しんだ父に倣い、40年を機に初めて投稿した女性もいる。淡路市の中来田(なかきた)朝子さん(69)。同居していた父健一さんは2009年、98歳でこの世を去った。生前、ふれあいに19回掲載されたほか、本紙「発言」や川柳のコーナーにも投稿していた。

 朝子さんによると、健一さんは若い頃に文学の道を志したが、「生計を立てるため、漁師になった」。しかし、その思いは捨てがたく、家では机の前に座り、文章を書いていたという。95歳で投稿した「発言」でも「文学への道とお別れすることはできない」と熱い思いをつづっていた。

 ふれあいでは、孫に浴衣を買ってあげたことなど優しさがにじむ内容。父の死後、残してあった投稿をスクラップし、さみしさを紛らわせるために川柳や詩を始めたという朝子さん。今回、ふれあいに初めて書いてみた。

 「やっぱりお父さんの方が上手。もっと書きたかったやろな。もっと長生きしてほしかったな」。健一さんの投稿を読み返し、しみじみと語った。(中島摩子)

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