「阪神・淡路」当日、三木市と吉川町職員の動き 最初の指示は「自宅に帰り、可能な限りおにぎり握れ」

2022/01/15 05:30

救援物資輸送車の準備をする河端康さん(右端)=1995年1月、三木市提供

 阪神・淡路大震災は17日、発生から27年を迎える。兵庫県三木市と吉川町(当時)でも揺れが襲い、民家の全半壊は120棟、一部損壊を合わせると5千超の建物に被害が生じた。未曽有の大災害が発生した1995年1月17日、両市町の職員はどのように動いたのか。(篠原拓真、長沢伸一) 関連ニュース 最後のトーホーストア閉店 神戸の阪神大石駅店に惜しむ列 兵庫で61年の歴史に幕 神戸マラソン2024、復興の地を2万人駆ける 阪神・淡路大震災から来年1月17日で30年 神戸の街、2万人が駆け抜ける 「神戸マラソン2024」17日号砲 終盤の難所は今大会が最後に


 三木市教育委員会の職員だった河端康さん(53)=現生涯学習課長=は緑が丘の自宅で揺れに遭った。「山崎断層地震(1984年)の震度4とは比べものにならない」と、午前7時すぎに市役所へ向かった。現在に比べ、当時は災害対応の指針が綿密に整備されておらず、市消防職員は「自主的に参集した人もいたが、緊急連絡はなく、ほぼ通常通り出勤していた」と打ち明ける。
 市は午前10時に災害対策本部を設置。市幹部からの最初の指示は「『自宅に帰り、可能な限りおにぎりを握れ』だった」という。
 午後2時ごろ、職員が持ち寄ったおにぎりを積み込んだワゴン車が出発。消防本部の軽トラックが先導し、渋滞をかき分けて兵庫区役所へ向かった。ハンドルを握った河端さんは後に独自に作成した資料にこう記す。「市街地のあちこちから火事の煙が上がっていた。(中略)消防車があふれ、サイレンの音が脳裏に焼き付いた」
 救援本部を設置した吉川町は、午後9時45分に県対策本部の救援要請を受け、午後10時半に職員79人を緊急招集した。ここでも最初の指示はにぎり飯の準備だった。運搬役を担った石田英之さん(58)=現議会事務局長=は「三宮の道には消防ホースがいくつも横たわったが、車で踏み越えられた。消火用の水がなかったのだろう」と振り返る。
 阪神・淡路を踏まえ、両市町では災害対応が改められた。三木市では震度5弱の地震発生で自動的に職員が避難所開設に動くことなどが定められている。一方、当時の経験を伝える機会はなく、市危機管理課は「震災体験の引き継ぎは重要」と示した上で「災害対応に強い職員育成に力を入れる」としている。

■救助活動に三木金物 のこぎり3500丁など運ぶ

 震災当時、三木金物も被災現場に送られた。兵庫県警がまとめた記録によると、三木市内の金物メーカーなどからのこぎり3500丁、ヘルメット1500個、防じんマスク3千個、金づち1500個が運ばれた。
 金物メーカーの岡田金属工業所(同市大村)相談役の岡田隆夫さん(79)は発生当日、親戚を救助するためのこぎりやバールを持って同県西宮市に向かった。木造家屋は倒壊し、親戚の男性ははりの下敷きになっていた。救助には油圧ジャッキで持ち上げる必要があり、岡田さんが手持ちののこぎりで木材を切って角材を用意して支えを作った。何とか助け出せたが、頭から出血し、既に命はなかった。
 被災現場でのこぎりの必要性を痛感し、同社は三木商工会議所を通して6千丁を寄付。岡田保社長(78)は「倒壊した建物は木造が多かった。あの時送ったのこぎりは一般用だが、少しでも役に立ってもらえればとの思いだった」と回顧する。(長沢伸一)

【特集ページ】阪神・淡路大震災

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