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M's KOBE

海と山に囲まれた港都・神戸。明治期の開港をきっかけに、映画やジャズ、ファッションなど西洋文化をいち早く取り入れ、モダンでハイカラな街として発展してきました。

神戸新聞では2018年7月から市内9区をひと月ずつ訪ね歩く「マンスリー特集」をスタート。これまで紙面掲載された記事を集めました。神戸らしさを象徴する「海(Marine)」「山(Mountain)」「音楽(Music)」「神戸牛(Meat)」「出会い(Meet)」、そして「マンスリー(Monthly)」の頭文字「M」をあしらった、その名も「M's KOBE」。

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生田町の謎(上) 昔の川の流れが地名に影響? 2021/02/01

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生田川跡地にできたフラワーロード。葺合区と生田区の境界だった

 神戸市中央区の地図を広げる。その真ん中を貫くフラワーロードを北上すると、二つの地名が現れる。

 生田町と葺合町。

 今をさかのぼること40年、中央区は、生田区と葺合区が合併して誕生した。フラワーロードの西が生田区で、東が葺合区。だが、生田町があるのも、なぜか道の東側だ。

 「中央区歴史物語」などの著者で姫路独協大副学長の道谷卓(たかし)さん(56)に尋ねると、こんな答えが返ってきた。

 「時代は定かではないですが、はるか昔、生田川はフラワーロードよりも東を流れていたという説と関係があります」

 かの布引の滝から流れ来る生田川について、ここで少しおさらいをしなければならない。

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「国郡全図」(1828年)より摂津国(上が南)。生田川の東に生田村、西に生田神社が描かれている(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 神戸開港時、生田川の流路は現在のフラワーロードにあり、豪雨になるとたびたび氾濫した。これを恐れた居留地の外国人の要請を機に、明治3(1870)年、付け替え工事が始まる。約800メートル東に移った川が「新生田川」とも呼ばれるのは、このためだ。工事を請け負った材木商・加納宗七の名は、旧生田川跡地を造成してできた「加納町」として残る。

 道谷さんの言う「はるか昔」とは、中世以前のこと。生田の地は、布引辺りから生田神社周辺を指したという。つまり、もともとの生田川の西のエリアだ。

 「それが、流路が西に移ったことで、『生田』の地名が川の東側になったと考えられます」

 確かに郷村が形成された中世以降の地図を見ると、川は生田村と生田神社の間を流れている。その川がフラワーロードとなり、1931(昭和6)年の区政実施の際には、生田区と葺合区の境界となったというわけだ。

 「明確な証拠はありませんが、このように考えるのが合理的です」

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 現在流れる新生田川から見れば、生田町は川の西岸。流路の自然な変化が、付け替えで元に戻った格好なのも面白い。

 あれこれ取材をしていると、別の角度から生田川の変遷に迫る、もう一人の人物に出会った。(安福直剛)

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 中央区の東半分、都心にあって下町の雰囲気を残す葺合の歴史と今を訪ねます。