葺合の地名をとどめる郵便局=神戸市中央区吾妻通1
国道2号を東に行けば、兵庫県警葺合警察署に葺合郵便局。新神戸駅を東に曲がると、葺合中学校に葺合高校-。
神戸市中央区が発足して40年がたった今も、区の東部には「葺合区」が存在したことを示す施設が残っている。だが、そもそも「葺合」の地名の由来とは?
「実は『葺合』の地名が公に出てくるのは、近世になってからです。しかも、それは“誤字”から生まれた可能性が高いといわれています」。郷土史に詳しい姫路独協大副学長の道谷卓(たかし)さん(56)はそう話す。
道谷さんによると、現在の神戸市東部を含めた西摂の海岸地域一帯は古くから「芦(あし)の屋(芦屋)の里」と呼ばれていたという。
藤原基家の「あしのやの-」の歌碑=神戸市中央区葺合町
鎌倉中期の歌人藤原基家も「あしのやの砂子の山のみなかみを のほりて見れは布ひきのたき」と和歌に詠み、歌碑が布引の滝へのハイキングコースにある。
中世に入ると、芦屋の里に「葺屋(ふきや)荘」という荘園が出現する。これは、「芦」と別の字の「葦(あし)」が、字体が似ている「葺(ふき)」に何かの拍子で入れ替わったというのだ。「葺屋荘」の成立以降の鎌倉末期になっても、「葦屋荘」と書かれた古文書があるというから複雑である。
しかし、「葺」が間違いから生まれたにせよ、まだ「葺合」ではない。江戸時代の文献や地図を見ても、村の名前に見当たらない。葺合村が誕生したのは明治の初めで、生田や熊内、脇浜などの旧7カ村が合併。1887(明治20)年には筒井村を併合し、2年後に神戸市に編入された。区制が敷かれ「葺合区」となるのは、1931(昭和6)年のことだ。
「葺屋(かやぶき農家)は『吹屋』(屋根のない家)に通じ、縁起が悪いと思われていたようです。そのため、『葺』が『合』わさるという意味も込めて、合併に際して改称したと考えられます」
こうした変遷を経て成立した地名も、現在は山間部の葺合町に残るだけ。少し寂しい気もするが、区名が消えた後も、住民の日々の暮らしは変わらない。下町らしい商店街や市場に足を運んでみることにした。(安福直剛)