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M's KOBE

海と山に囲まれた港都・神戸。明治期の開港をきっかけに、映画やジャズ、ファッションなど西洋文化をいち早く取り入れ、モダンでハイカラな街として発展してきました。

神戸新聞では2018年7月から市内9区をひと月ずつ訪ね歩く「マンスリー特集」をスタート。これまで紙面掲載された記事を集めました。神戸らしさを象徴する「海(Marine)」「山(Mountain)」「音楽(Music)」「神戸牛(Meat)」「出会い(Meet)」、そして「マンスリー(Monthly)」の頭文字「M」をあしらった、その名も「M's KOBE」。

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多聞の歴史、史誌編集者が回顧「全員農家だった」 2018/09/08

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地域の魅力などについて話し合う多聞史誌編集委員会のメンバー=垂水区本多聞1

 山あいの僧侶の村として始まり、戦国時代には戦火に焼かれ、現代は大規模なベッドタウン…。目まぐるしく姿を変えてきた神戸市垂水区の多聞地域。その伝統行事や歴史を守り、伝えてきた多聞史誌編集委員会のメンバーに、地元への思いなどを語ってもらった。(西竹唯太朗)

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入居が始まった1965年ごろの多聞団地(手前)。奥には明舞団地も建設されている(垂水区役所提供)

 -昔の多聞地域はどんな町だったのか。

 山内秀世委員長(68) もともとこの辺りは何もない、山に囲まれた農村だった。須磨区多聞町から垂水区多聞町になった終戦後ぐらいから大きく変わり始めた。山が開かれて団地ができ、人が増えると、スーパーや店も増えてきた。

 柏木耕二顧問(83) 村の人間は全員農家だった。私もスイカやダイコンを作っていて、神戸の中央市場に出していた記憶がある。

 金尾和江さん(88) 砂地だから水はけが良く、野菜が育ちやすかったな。特にスイカとダイコンはブランドとして扱われるほどだった。ただ、開発が進むにつれ、土地が買われて畑も消えていった。

 -開発当時の町の様子は。

 大崎巽副委員長(72) 山を削っては海に運んで埋め立て地にしていたけど、ここらの山はあんまり平たくされなかったな。

 柏木 名谷とか他地域と違って、多聞は山が低いから削る必要がなかった。全部丘みたいなもんやった。

 -団地ができて変わったことは。

 柏木 小学校が増えたことかな。私たちは舞子小学校に通っていたけど、外から人が引っ越してきて、学校が多くできたね。

 大崎 短期間に増えたもんやから、住所地によっては何回も通う学校が変わった子どももいたなぁ。

 -これまでどのような活動をしてきたのか。

 山内 獅子舞や盆踊りなど地域の伝統行事を保存会として守ってきた。昨年には『多聞のあゆみ』と題して、地域の文化や歴史を記した史誌をまとめた。

 柏木 旧多聞村に当たる本多聞地域の38家はまとまっていて、地域の行事にも積極的やし、これだけの活動ができたのだと思う。

 -皆さんは団地が建つ以前から多聞に住んでいた世代だが、高齢化が進む。今後、どのように多聞の文化を守っていくのか。

 山内 確かに、団地の住民も年老いてきて、もはや多聞がふるさとになっているようには感じる。ただ、保存会や編集委員会に入りたいと思うかどうか。

 柏木 以前、団地の人たちに獅子舞を手伝いに来てもらったこともあったが、続かなかったなぁ。

 大崎 人が減ってきて、どこも担い手がいない状態だ。若い世代にも関心を持ってもらえたらいいが、なかなか難しい現状がある。

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神戸新聞NEXT

【神戸市内の団地開発の歴史】1950年代の神戸は外国との貿易量が急増。臨海工業地帯の用地確保や港湾施設の整備、急増する人口の住宅問題を解決するため、六甲山系から土砂を採取し、臨海部を埋め立てるとともに、採取した跡地を住宅団地として造成する手法を採用。60年の鶴甲山を皮切りに、開発が進んだ。土砂の採取量が同市北東部のみでは間に合わないことなどから、須磨区など北西部でも開発を始めた。

 垂水区では62年に市が事業主となり多聞団地(現・多聞台団地)の開発が始まると、北部を中心に次々と団地が建設された。当時、入居倍率が100倍を超える団地もあったという。