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初めての東京 気ままにひとり歩き【18】

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更新日:2018年10月17日

 「日本の台所」と言われた東京都中央卸売市場築地市場が、83年の歴史の幕を閉じた。外国人観光客らでにぎわった市場の移転後が気になり、築地周辺を訪ねた。

移転後もにぎわう築地場外市場(東京都中央区築地周辺)


写真を撮ったりすしを食べたりする外国人観光客らでにぎわう築地場外市場=東京都中央区築地4

写真を撮ったりすしを食べたりする外国人観光客らでにぎわう築地場外市場=東京都中央区築地4

 地下鉄都営大江戸線の築地市場駅を出て、閉鎖されたばかりの築地市場跡地の正門前に立つ。築地市場は、江戸時代から続く日本橋の魚河岸が関東大震災で被害を受けたため、1935(昭和10)年に開場。以来、東京の一大食料供給基地として、水産物の取り扱い規模は世界最大級を誇った。とくにマグロの競りは外国人観光客の人気が高かった。移転したことを知らないのか、正門周辺には大勢の外国人の姿が。跡地は2020年の東京五輪・パラリンピックまで駐車場に利用されるが、その後の活用方法はまだはっきりしていない。
 隣接する築地場外市場に向かう。場外市場は生鮮食品や飲食の店が連なる商店街で、豊洲への移転後もそのまま残った。新大橋通りを曲がって波除通りに入ると、狭い路地が縦横に走り、魚、肉、野菜、乾物などを売る店からすし、丼などの飲食店、食器や刃物店まで食にまつわる店がひしめく。狭い通りは観光客らでごった返している。卵焼き店には行列ができ、魚店の前では外国人親子が大きな口を開けてカニをほおばる姿を自撮りしている。
 波除通りをまっすぐ進むと、神社に突きあたる。「災難を除き、波を乗り切る」と江戸時代から続く「波除(なみよけ)稲荷神社」。境内に入ると、さまざまな塚があった。活魚塚、鮟鱇(あんこう)塚、海老塚、すし塚、玉子塚…。商売で使う魚や卵などの供養のために建てられたもので、市場関係者らの信仰ぶりがうかがえる。入り口脇には「吉野家」の碑も。明治時代に日本橋魚河岸で創業し、1959年に「築地一号店」を開業後、牛丼が全国に広がった。その歴史と一号店の古い写真が一緒に紹介されている。
 ここで必見は、雌雄の巨大な獅子頭を祭る獅子殿だ。黒い雄の「天井大獅子」は「願い串」を納めると願い事がかない、赤色の雌の「お歯黒大獅子」は学芸や蓄財にご利益があるとされる。この2体の獅子を担いで練り歩く「つきじ獅子祭り」は江戸時代からの伝統の祭りだ。
 場外市場に引き返し、店先を見ながらぶらぶら歩く。有名なすしチェーンの本店前には社長の大型人形も。おいしそうなすしや海鮮丼の看板が並ぶが、あまりの多さと人混みに疲れて、場外市場を抜け出す。


異国情緒あふれる築地本願寺(東京都中央区築地3丁目)


築地のランドマークとなっている築地本願寺。ドーム屋根のインド風建築が特徴だ=東京都中央区築地3

築地のランドマークとなっている築地本願寺。ドーム屋根のインド風建築が特徴だ=東京都中央区築地3

 場外市場から出て晴海通りを北西に進み、築地4丁目交差点を右に曲がると、築地本願寺(中央区築地3-15)が見えてくる。ドーム屋根が特徴的なインド仏教様式の石造り建築で、異国情緒が漂う。ここも国内外の観光客や参拝客でにぎわっている。
 築地本願寺は1617年、京都にある浄土真宗西本願寺の別院として浅草に建立された。江戸・明暦の大火で焼失したため、1679年に海を埋め立てた現在地に再建。関東大震災で再び消失した後、1934年に現在の本堂が完成した。本堂や門柱、石塀は国の重要文化財に指定されている。
 本堂内は広々として、金色に輝くふすまや障子、欄間などの内装も豪華で目を奪われる。入り口の壁際にはお寺には珍しいパイプオルガンがある。1970年に寄進されたもので、大小2000本のパイプが厳かな音色を奏でる。建物のいたるところに牛や像、馬などの彫像が飾られているのもユニークだ。
 境内には浄土真宗の開祖親鸞聖人の大きな像が立つ。石塀沿いには、いくつかの石塔も並んでいる。そのひとつが、東京都指定旧跡になっている赤穂浪士間新六の供養塔。間は赤穂藩主浅野家の家臣の家に生まれ、藩主の仇討に加わり切腹。義兄が築地本願寺に埋葬したという。また、その先には、姫路藩主の次男で日本画家、文人として名をはせた酒井抱一の墓もある。
 敷地内で異彩を放つのは、ガラス張りのモダンな建物。昨年秋、創建400年を機に開かれたお寺を目指す狙いで開設されたインフォメーションセンターだ。しゃれたカフェやショップ、書店を併設し、とてもお寺の一角とは思えない。カフェでは、阿弥陀如来の本願にちなんだ18品目のおかずなどをセットにした朝食が人気という。不安や悩みを気軽に相談できる窓口を設置したり僧侶を紹介したりするなどの新しい取り組みも実施している。


外国人居留地と赤穂藩(東京都中央区明石町)


聖路加国際病院のあたりが赤穂藩の江戸屋敷だったことを示す碑=東京都中央区明石町10番

聖路加国際病院のあたりが赤穂藩の江戸屋敷だったことを示す碑=東京都中央区明石町10番

 築地は江戸時代に埋め立てられ、明治の開港後には外国人居留地となった。今もその跡が残る。新大橋通りから築地3丁目交差点を右に曲がり進んでいくと、聖路加国際大学(中央区明石町10-1)がある。その隣は聖路加国際病院だ。木々に囲まれた大学横の歩道で「都旧跡 浅野内匠頭邸跡」の石碑を見つけた。説明板によれば、聖路加国際病院が立つ一帯約8900坪は赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった場所。浅野内匠頭長矩(おき)は江戸城中で吉良義央(よしなか)を切りつけ、切腹を命じられる。江戸屋敷と領地などは取り上げられ、赤穂藩は断絶した。忠臣蔵の史跡は都内のあちこちで見かけるが、築地もゆかりがあったことを初めて知る。碑の近くには「芥川龍之介生誕の地」の看板も。そういえば芥川作品に忠臣蔵を題材にした小説があったはず。
 1870(明治3)年に外国人居留地となった明石町周辺は公使館や領事館が集まり、外交官や医師らが多く住んだ。聖路加国際大学の敷地内にアメリカ公使館跡の碑がある。通りをはさんで向こう側には、「近代日本文化事始めの地」の看板があり、「蘭学事始地の碑」と「慶応義塾開塾の地の碑」が並んで立つ。この辺りはかつて九州・中津藩邸跡だったところ。ここで中津藩医だった前野良沢らがドイツの医学書を訳した「解体新書」を発刊し、中津藩出身の福沢諭吉はここで慶応の原点となる蘭学の塾を開いた。
 そこから北へ少し行くと、カトリック築地協会がある。明治時代に建設され、関東大震災で焼失。1927(昭和2)年に現在の聖堂が再建された。柱が印象的な重厚な洋風建築だが、木造だという。門前には「暁星学泉発祥の地」の碑も。この一帯にはほかにも女子学院や青山学院大学、立教大学など発祥の地があちこちにあり、欧米文化の発信地だった歴史を伝えている。
 次回は、国立能楽堂のある渋谷区千駄ヶ谷から東京五輪・パラリンピックに向けて建設が進む新国立競技場の周辺を巡る。(東京支社・村上早百合)


【地図】今回歩いたのは…


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