三田

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水色のポールが目印の水門=三田市三田町
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水色のポールが目印の水門=三田市三田町
旧九鬼家住宅資料館の横を通る水路=三田市屋敷町
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旧九鬼家住宅資料館の横を通る水路=三田市屋敷町
寺村地域の水源となっている三田御池=三田市屋敷町
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寺村地域の水源となっている三田御池=三田市屋敷町
神戸新聞NEXT
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 兵庫県三田市三田町の住宅密集地を走る水路に、水色のポール3本がそびえる水門を見つけた。操作盤を見ると名前は「どんとゲート」。夜にランプがピカピカして存在感を際立たせることもある。市街地のど真ん中にどんと構えて、誰の役に立っているのだろう? 調べると、江戸時代より前にさかのぼる街の物語が見えてきた。(山脇未菜美)

 地図を見ると、水は水門から北西約750メートルにある屋敷町の「三田御池」から来ていた。水路は水門でY字形に分岐しており、開いている時、水は北向きの水路に流れるが、せき止められると南東方向の水路へ。

 南東の水路を歩いて追うと、旧九鬼家住宅資料館を抜け、昔風情の民家が並ぶ本町通りに沿って走った後、神戸電鉄の線路の地下もくぐって、たどり着いた先は「寺村町」の田んぼだった。三田御池から水路の距離は約1・5キロに及ぶ。

 「水門は寺村の稲作期に開けるんよ」と地元の水利組合長、中西久美さん(72)が教えてくれた。三田御池では寺村町のために5~9月の週2回、午前5時ごろから昼すぎにかけて水を抜く作業を行っているという。

 なぜ、これほど離れた水源を使うのか。理由を記した書物はないが、郷土史に詳しい印藤昭一さん(55)によると、少なくとも九鬼家が三田藩主になった江戸前期の1633年には三田御池の水を使っていたとされる。

 かつて水不足にあえいだ寺村町。北側には武庫川があるが、川は寺村町より標高が低く、水を引けない。そこで高地にある三田御池を使ったという訳だ。

 地名が「寺」の1字という珍しい旧村名「寺村」は、市内の古刹「金心寺」(天神3)に由来すると伝わる。三田御池は当時屋敷町にあった金心寺が所有し、寺村町の人々は池の水を引く代わりに米を寺に納めていたという。そのおかげか、江戸前期に九鬼家が一帯を治めても寺村の水利権は守られてきた。

 ただ、困ったのは水門近くに暮らす人々だった。40年ほど前までは寺村町の人々が木板で水をせき止めていたため、「大雨が降るとよう水があふれよった」と近くの男性(96)。本町通りの民家が床下浸水することもあり、そのたびに住民らが寺村町に対応を求めたと振り返る。

 その後、市が設置した水門は高さ約3・8メートル、幅5・9メートル。市と寺村町が共同で管理し、一定の水位に達すると三つのゲートが自動的に開き、異物や漏電があるとランプが点滅する。

 水門名の「どんと」は漢字で「呑吐」と書き、池の水を呑んで吐くことに由来するという。名付けたのは、水の恩恵を受ける寺村町の人々か、それとも水害に困った水門付近の人々なのかは分からない。いにしえから続く水路は今もなお、活躍していた。

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