三田

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「もう70年も前の話やで」と当時を思い出す今北初男さん=三田市
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「もう70年も前の話やで」と当時を思い出す今北初男さん=三田市
収容所で食事を取る捕虜のイメージ(吉田勇さん作、舞鶴引揚記念館提供)
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収容所で食事を取る捕虜のイメージ(吉田勇さん作、舞鶴引揚記念館提供)

■極寒の地獄へ 今北初男さん(95)

 戦争-。平成2年生まれの私にとって、遠いものに感じる。10歳の時にアメリカ同時多発テロ、12歳でイラク戦争が起きたが、深く考えずに生きてこられた。戦争放棄を定めた憲法9条の改正を巡る議論が取りざたされ、近隣国との関係が悪化する日本。平和を信じたいけど、現状はちょっと怖い気もする。どうして国同士が戦うの? 戦った先に何があるの。体験者に話を聞いた。第1部は兵庫県三田市の今北初男さん(95)。(山脇未菜美)

 今北さんは終戦直後、21歳でソ連軍に連行され、カザフ共和国(現カザフスタン)のカラガンダで強制労働させられた。いわゆるシベリア抑留だ。この秋、解放されて丸70年がたった。耳は遠く足腰は弱った。それでも杖とシルバーカーを頼りに歩き、毎日、自宅そばの畑で土を触る。「何の役に立つか言うたら全然やけどな。動ける間は、生かしてもらった恩を返そうと思うて」

 〈私の身近に戦争経験者はいない。今北さんを知りたくなった〉

 そこは日本から西へ約5300キロ離れた炭鉱の街だった。中央アジアにあって冬は氷点下30度を下回る。吹雪に頬を打たれ、銃を持つソ連兵に監視されて隊列で歩くと、平野の先に炭鉱のぼた山が見えた。約100メートル地下に入って爆薬を発火させ、舞い上がる煙や粉じんが喉に絡んだ。

 「中は真っ暗や。ランプ一つを頼りに(坑内の)坂を下って、(地中から出る)ガスで火が消えたら動きがとれへん。中で40人が倒れてもうとることがあった。(ガスで)意識がすーっとなくなったんやて。1人は運んでた丸太と一緒に(坑内の谷に)落ちて即死や。他にも不発弾が爆発して2人が死にました。遺体は持って帰られへんから爪を取ってね。いつになるやら、同郷の者が家族に届けるねんと言うてました」

 収容所(ラーゲリ)の部屋には約120人が入り、3段の寝台にそれぞれ毛布1枚があてがわれた。ペーチカと呼ばれる暖炉が一つ。3食とも黒パンひと切れと少しのスープだった。

 「箸を置いたら次の食事を考えることしかできへん。せやけど、トイレは行きたくなるから不思議やろ。外に掘った穴にうんこやおしっこをしたら凍るねん。週に数枚渡されるロシア語の新聞をちびり、ちびりとちぎって使ってな。ラーゲリは蚤や虱だらけや」

 手の皮膚が骨に張り付いたようにやせ細り、精神的に参った戦友は独り言を繰り返して会話ができなくなった。身体検査ではソ連の人に尻を触られ、つまむ肉がある限り働かされた。

 シベリア抑留に関する史料を所蔵する「舞鶴引揚記念館」(京都府舞鶴市)によると、カラガンダでは約3万4千人が収容され、約1500人が亡くなった。死因の多くは栄養失調や不衛生による病死だった。

 今北さんの抑留生活は4年に及び、その間に実家の母は病気で亡くなった。「大事な時間を取られたなあと思うた。でも、国を責めてもしょうがあらへん。負けたんやから。負けたら、口答えができんがな」

 〈「しょうがない」という言葉にいろんな感情が交ざっている気がした〉

 今北さんは汽車で連行される途中、止まった駅で現地の人が群がってきたのを覚えている。食べ物を差し出され、時計や万年筆との交換を迫られた。生活のために換金するという。

 「ソ連も戦争で国力が弱って物がないし、人も飢えとるんやな。つらいのは負けた日本だけやない。戦争に参加した国はどこも無残やあ」

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