三田

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祖母の遺灰をフィリピンの戦地に届けた坊野祥子さん。遺影は久子さんと博さん=三田市
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祖母の遺灰をフィリピンの戦地に届けた坊野祥子さん。遺影は久子さんと博さん=三田市
追悼文を読んで祖父母への思いを伝える坊野祥子さん(坊野さん提供)
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追悼文を読んで祖父母への思いを伝える坊野祥子さん(坊野さん提供)
祖父の博さんが戦死したとされるフィリピンの集落(坊野さん提供)
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祖父の博さんが戦死したとされるフィリピンの集落(坊野さん提供)
久子さんが博さんとやりとりした軍事郵便。生涯、大切に保管していた(坊野さん提供)
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久子さんが博さんとやりとりした軍事郵便。生涯、大切に保管していた(坊野さん提供)

 太平洋戦争の激戦地だったフィリピン・ルソン島で戦死した祖父の元へ、兵庫県三田市で亡くなった祖母の遺灰を届けようと、同市の坊野祥子さん(54)が1月、初めて同島を訪れた。おばあちゃんっ子で物心がついた頃から祖父の話を聞いて育った祥子さん。「やっと大好きなおじいちゃんと一緒に休めるね」。命をつないでくれた感謝の思いを込めて戦地の山に返した。(山脇未菜美)

 祥子さんが育った家で農業をしていた祖父の博さん。終戦1年前の1944年4月、広島県にあった海軍の呉海兵団に入隊した。当時、33歳。祖母の久子さんは30歳、父の憲男さんは5歳で2歳違いの妹もいた。

 博さんは同年8月にフィリピンのルソン島へ。翌年1月に米軍が上陸し、後退しながら45年2月、北部の集落で命を落としたとされる。

 しかし国の知らせはなく、遺骨も届かない。約10年後、高校生になった憲男さんが国に問い合わせて、ようやく戦死が判明した。

 60歳を超えて久子さんは、幼かった祥子さんと一緒に農作業をしたり、おはぎを作ったりしながら何度も祖父の話をしたという。出征前には両親に米や野菜を届けて「家族を頼みます」と言ったこと。貯金をつぼに入れて渡してくれたこと。決して怒ることがない、優しい人柄だったこと…。

 そして、祥子さんによく言った。「いつかフィリピンにお参りしてあげてね」

 2010年、久子さんが96歳で老衰で亡くなると、祥子さんの心に祖母の“お願い”が残った。17年、祖父のことを知りたいと戦没者を慰霊する「日本遺族会」に入会。同会がフィリピンで慰霊事業をすると聞いて同行を申し出た。

 旅は1月9~14日の4泊5日。高層ビルが立ち並ぶ首都マニラからバスで北に走り、山々が連なる郊外に入るとガイドは説明した。

 フィリピン・ルソン島は第2次世界大戦で、太平洋の戦場で最も多い約27万人が命を落とした激戦の地だった。本土決戦までの時間を稼ぐため、戦力が続く限り米軍を足止めすることが求められた

 広大な山中で激しい攻防があったのだ。集落に着くと、慰霊碑を前にして追悼文を読み上げた。

 「命をつないでくれたおじいちゃんに感謝し、戦争でのつらい思いを孫の世代の私たちが自分ごととして考えたい」。久子さんの遺灰を入れた小さな地蔵を高台から森に投げ入れると、目尻を下げて喜ぶ顔が浮かんだ。

 夫を失った久子さんは戦後、農業をしながら子ども2人を育て、憲男さんは家業を手伝いながら学校に通った。まだ水道もなく、20メートルも先の池から水を運んで風呂を沸かしていた。祖母の話を振り返って祥子さんは今、思う。どれだけの遺族が物やお金に苦しむ生活を送ってきただろう、と。

 「私は苦労なく生活してきたけど、平和と豊かさは犠牲の上にあるんですね」。そう言って、祖父母の遺影に目を細めた。

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