三田

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「スコップを右肩に担いで…」と、食糧増産隊の経験を話す惣田伊平さん。「戦後75年の平和に心から感謝して暮らしています」=三田市
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「スコップを右肩に担いで…」と、食糧増産隊の経験を話す惣田伊平さん。「戦後75年の平和に心から感謝して暮らしています」=三田市
惣田さんが今月まとめた増産隊の回想文。当時の記憶は鮮明だ
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惣田さんが今月まとめた増産隊の回想文。当時の記憶は鮮明だ
神戸新聞NEXT
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 「♪万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く…」

 1945年の春。大声で軍歌を歌い、約100人の小柄な兵隊が田んぼの一本道を行軍していた。カーキ色の国民服、脚にはゲートル。戦闘帽を頭に乗せたどの顔にも、あどけなさが残る。右肩に立て掛けるのは銃ではなくスコップだ。

 「エンピ(円匙)と呼んでいました。農地を開く仕事道具。農兵にとっては銃のようなもんです」

 一団の中にいた惣田伊平さん(89)=兵庫県三田市=が振り返る。小野国民学校(現在の市立小野小学校)の高等科を卒業したばかり。まだ14歳だった。

 惣田さんが所属したのは食糧増産隊の兵庫大隊第2中隊。30~40人の3小隊に分かれ、主に有馬郡(現三田市など)と美嚢(みのう)郡(三木市など)出身者で編成、少年農兵隊とも呼ばれた。3月に入隊した惣田さんは1期生で、みな同い年だ。

 任務は田畑を開いてサツマイモを育てることだが、組織は徹底した軍隊式。27歳の多田中隊長、21歳の小林小隊長は共に陸軍から派遣されていた。ラッパで目覚め、朝食前には国家神道の言葉を15分間唱えた。

 「1人でも唱えられなんだら、全員が朝食抜きですわ。軍人勅諭も暗唱です」

 第2中隊は約1カ月ごとに場所を変えながら、開墾に励んだ。同年4月には名門ゴルフコースの廣野ゴルフ倶楽部(三木市)へ。

 緑のじゅうたんのような芝生に、約100人の隊員が横一列に並ぶ。「始め!」という小隊長の命令で芝の根をはがし、巻き取っていった。露出した土を耕し、イモのつるを植える。毎日7、8メートルずつ前進した。

 「きれいな芝生がもったいない、と思いながら作業しました。こんなことまでせなあかんのに、戦争に勝てるんかいな、ともね」

 宿舎では毎日、竹筒を割った器にキビご飯が出された。食べ盛りには空腹だった。イノシシからイモを守るため、交代で不寝番に立った隊員が思わずイモを掘って食べたこともあった。

 5月に入ると神戸の空襲による煙で、昼間なのに夕方のように暗くなった日もある。程なく、第2中隊に移動の命令が下った。冒頭の行軍は、次に作業をする神出(かんで)(神戸市西区)の農場に向かう時の光景だ。

 「田んぼの向こうから農家の人が、何とも言えん顔でこちらを見とったんです。『あんな子どもまで駆り出すとは、もう日本もこれまでや』みたいに感じられましたな」(高見雄樹)

【食糧増産隊】太平洋戦争末期、都道府県ごとに大隊が編成された。1944年10月の陸軍省資料などによると、農村の人手不足による食料難の解消を目指し、農家の少年を召集して組織するよう各都道府県に求めている。本土決戦に突入した際の要員を確保する狙いもあった。軍隊式の厳しい訓練と作業が続き、劣悪な衛生環境などから病気で亡くなった隊員もいたとされる。

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