三田

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炭焼き作業の合間に笑顔で写真に納まる小野国民学校の子どもたち。最上段の左端が惣田伊平さん。上段の右から3人目が石井祥一校長(惣田さん提供)
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炭焼き作業の合間に笑顔で写真に納まる小野国民学校の子どもたち。最上段の左端が惣田伊平さん。上段の右から3人目が石井祥一校長(惣田さん提供)
写真の裏面には「必勝増炭記念」と大きく書かれている
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写真の裏面には「必勝増炭記念」と大きく書かれている
神戸新聞NEXT
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 素足に草履の子どもたちが、最高の笑顔で写真に収まっている。

 小野国民学校(現在の市立小野小学校)の初等科5、6年と高等科1、2年(現在の小5~中2)の26人が1944年10月、兵庫県三田市永沢寺の国有林で撮った1枚だ。

 「5年生になると毎日毎日、山で炭焼きです。木を切って窯に運び、真っ黒になって炭を作る。けがもようしましたけど、お国のため、戦争に勝つためやと思うたら、苦になりません」

 この時、最上級生の高等科2年生だった惣田伊平さん(89)=三田市=が、懐かしそうに語る。写真の裏には「必勝増炭」の文字。惣田さんが自ら書いた。「少しでも戦争の足しになれば、という思いやったんでしょう」

 写真には、炭焼き窯の入り口で柔和な表情を浮かべる石井祥一校長の姿もある。「誠実で優しい先生でした」と敬愛する惣田さん。この写真の4カ月後、思いもよらない指示を受けた。

 高等科を卒業目前の45年2月、惣田さんら同級生3人が校長室に呼ばれた。「何やろな」。恐る恐る入った3人にいつもと違う、厳しい表情の校長が言った。

 「戦争が劣勢になっているのは知っているか。少しでも食糧を自給できるよう、県の増産隊が結成された。入隊の通告が来ている。1週間後に入ってくれ」

 惣田さんによると、県は農家の長男を対象に指名した。国民学校に入隊の通告が来るのは初めて。校長は強い語気で「国のために行ってくれ」と言い切った。

 「5年生から毎日炭焼きに行き、勝つまでは何でも辛抱していました。『兵隊になれ』とは誰からも言われんかったが、社会の雰囲気として20歳までには戦争に行くもんやと思っていた。洗脳されとったんやね」

 惣田さんは不安な気持ちがあったが、すぐに腹をくくった。翌日には母と三田の店を巡り、国民服や戦闘帽などの一式をそろえた。1週間後に三田駅から汽車に乗り、訓練のため現在の同県多可町に向かった。

 食糧増産隊兵庫大隊第2中隊に所属し、北播磨の数カ所を転々としてサツマイモを植えた惣田さん。収穫量など同隊の活動記録は残っていない。45年8月15日は同県西脇市の宿舎で迎えた。「悔しい思いと、負けてもいい、やっと終わったという安心感が半々でした」

 隊が解散し、三田に戻ったのは10月。8カ月間の農兵生活だった。(高見雄樹)

【自動車燃料としての木炭】日中戦争の開戦後に原油の輸入が困難になると、バスやトラックはガソリンの代わりに木炭やまきを燃料にした。木炭を燃やして一酸化炭素を主成分とするガスを発生させ、このガスをエンジンに導いて走らせた。ガソリンに比べてエンジンの出力は大きく見劣りしたが、人員や軍事物資の輸送に欠かせない燃料として、木炭は配給物資の一つになった。

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