草木をかき分けて真っ暗闇を進む-。昨年11月、兵庫県三田市に暮らす谷口實男(じつお)さん(101)が散歩中に市内の森に迷い込み、一晩中さまよった。何度も転倒して胸の骨を折り、翌朝に道で倒れているところを発見されて一命を取り留めた。入院先を見舞うと、かすれ声で言った。「インパール作戦を思い出しました」。それは太平洋戦争で最も無謀と言われ、およそ9万人が出兵して6万人以上が命を落とした作戦だ。終戦75年になっても心にすみ着く体験を聞いた。(取材班)
■圧倒的な戦力差を痛感
谷口實男さん(101)は「戦争に行きたかった」ときっぱり言う。どういう感覚なのだろうか。
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1919年、京都府福知山市の農家に5人きょうだいの四男として生まれた。
物心の付いた時には天皇は神聖な存在だった。尋常小学校の校門に昭和天皇の写真を納める「奉安殿(ほうあんでん)」があり、登校時に背筋をピンと伸ばして敬礼した。
朝礼では校長が白い手袋をはめて「教育勅語」を読み上げた。「お国のために死ぬのは名誉」と心から信じていたと振り返る。
「愛する祖国や同胞を守るために(略)覚悟を決め、力を尽くしましょう」。教育勅語の現代語訳(明治神宮編)だ。「一人の命は地球より重い」と教えられてきた私たちとは違う。
10歳で昭和恐慌、12歳で満州事変が起きる。谷口さんは14歳で国鉄に就職して地元で働き始めた。
18歳で日中戦争が始まると、二つ上の兄が出兵するのを見送った。後に兄は戦死し、その婚約者と自分が終戦後に結婚するとはまだ思いもしない。
日中戦争に欧米が介入して日本が孤立する中、共産党員の男性らが玄関をたたき、「戦争はだめや。負けるで」とこっそり親を勧誘していたのを覚えている。
「けしからんと思ってました。当時は武力の強い国が領土を広げた時代です。日清・日露戦争で先祖が命をかけて手に入れた領地は、断じて守らないといけないと思っていました」
20歳。奈良県の歩兵連隊に仮入隊し、21歳で太平洋戦争が始まる。中国・南京で飛行場を壊す作戦に参加して3年8カ月が過ぎ、帰国できると思って船に乗り込むと「南方に行く」と告げられた。日本軍が占領したタイで軍用道路の警備活動中、44年1月、25歳でインパール作戦が決まった。
日本軍は開戦直後、連合軍が中国国民党政府に物資を運ぶ「援蒋(えんしょう)ルート」の遮断を狙って英国領のビルマ全土を制圧。しかし43年2月にガダルカナル島を失うと、連合軍の反撃が南方で一気に強まっていた。
タイからビルマへ約1020キロ。広大な高原地帯を歩くと、空から英軍機が狙ってくる。昼は赤土を掘ってつくった壕(ごう)に身を潜め、猛スピードで機関銃を放つ機体を見上げた。
夜は虎よけのたいまつを手に歩き、風に舞う砂と汗にまみれた。後ろを歩く軍医が語り掛けてきた。「谷さんよ、わしらの装備は明治時代とちっとも変わらへん。勝てるんかいな」
谷口さんたちは連合軍に圧倒的な戦力を感じていたという。なのに、誰のために戦おうとしたのか。
戦争はチャンバラの続きで世界の広さを知ることができる-。そんな子どもの頃の幻想は戦地でなくなり、敵の攻撃のたびに「南無阿弥陀仏」を唱えたと打ち明ける。それでも、逃げだそうとは一度として思わなかったという。
「やっぱり日本人やからね。絶対に恥ずかしい行動をとったらいかん。立派に戦ったんやと。古里で『あんたとこの息子は戦地でそんなことしたらしい』と誰かから言われたら、それこそ家族がみじめやから」
