三田

  • 印刷
空襲で亡くなった仲畑恒芳さん(提供)
拡大
空襲で亡くなった仲畑恒芳さん(提供)

 15日は終戦の日。75年前、戦禍は兵庫県三田市にも及んでいた。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月19日、数機の米軍機が児童4人と成人女性1人の命を奪い、高次地区の農家4戸を全焼させた。市民の記憶から薄れつつある空襲の記憶を経験者3人から聞いた。(小森有喜)

■シャツが赤く染まった

 当時、私は5歳でした。国民学校と同じ敷地にあった幼稚園から帰る途中で、中嶋さんと同じ集団にいました。「バリバリバリ」という戦闘機の音が響くと同時に、引率していた上級生が「隠れぇ!」と叫び、抱きかかえられるようにして水路に転がりこみました。

 グラマンが過ぎ去った後、顔を上げて周囲を見渡すと、近くにいた当時13歳の兄・恒芳(つねよし)が血を流して倒れていました。弾が脇腹を貫通し、白いシャツが見る見るうちに赤く染まっていきました。兄は苦しそうにうめき、私は何もできませんでした。その場で息絶え、遺体は大人たちが戸板に乗せて運んでいってくれたと記憶しています。

 兄は成績優秀で国民学校を卒業した後、両親は三田学園に進むことを望みましたが、「長男として家の農業を継ぐから」と、地元の学校に進んでいたんです。違う進路を選んでいればあの通学路を通ることもなく、亡くなることもなかったでしょう。いい兄やったんですけどね。

三田の最新
もっと見る

天気(9月24日)

  • 29℃
  • ---℃
  • 60%

  • 28℃
  • ---℃
  • 60%

  • 29℃
  • ---℃
  • 60%

  • 30℃
  • ---℃
  • 50%

お知らせ