三田

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機銃掃射に命を狙われ、とっさに逃げ込んだ水路を指す西浦道雄さん=高次
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機銃掃射に命を狙われ、とっさに逃げ込んだ水路を指す西浦道雄さん=高次
国民学校から集団下校中の児童2人が亡くなった現場付近。当時は田畑が広がっていた=高次1
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国民学校から集団下校中の児童2人が亡くなった現場付近。当時は田畑が広がっていた=高次1
西浦さん家族が米国から農業研修生の女性(中央)を受け入れたことを伝える当時の新聞=1956年5月(提供)
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西浦さん家族が米国から農業研修生の女性(中央)を受け入れたことを伝える当時の新聞=1956年5月(提供)
神戸新聞NEXT
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 15日は終戦の日。75年前、戦禍は兵庫県三田市にも及んでいた。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月19日、数機の米軍機が児童4人と成人女性1人の命を奪い、高次地区の農家4戸を全焼させた。市民の記憶から薄れつつある空襲の記憶を経験者3人から聞いた。(小森有喜)

■ホームステイ契機、国際交流に尽くす

 同市の西浦道雄さん(84)は自宅が被弾で全焼した。当時10歳。米国に憎しみしか持てなかったが、戦後、同国の女性をホームステイに招いたのを機に考え方が変わった。「国が違えば考えも文化も違う。互いを理解しようと努めることが大切なんだ」。渡米して農業を学び、国際交流に力を尽くすようになった。

 あの日午前、三輪国民学校(現・三輪小学校)から下校中、空襲警報が鳴り響いた。空を見上げた次の瞬間、驚いて近くの水路に飛び込んだ。

 西空からグラマン戦闘機が猛スピードで迫り、機銃掃射を始めたのだ。「パイロットの顔が見えるほど低空を飛んでいた」。近くの女性は首を撃たれて病院に運ばれていった。

 帰り着くと、自宅と近隣の4軒が燃えていた。池の水で消火しても間に合わない。終戦後しばらく、仮設のわら小屋で暮らすしかなくなった。

 「子ども心にアメリカが憎いと思いましたよ。家も家財も食料も、全て奪われてしまったんですから」

 11年後の56年には自宅を再建し、父親から継いだ田畑で米、麦を育てて生計を立てていた。すると、県を通じて米国人女性を農業研修でホームステイさせないかという提案が舞い込んだ。「わが家を焼いたアメリカ人を入れるのか」と家族で意見が割れたが、「国は関係ないでしょう」と母ゆきゑさんの一声で受け入れることになった。

 27歳のドイツ系白人女性だった。気さくな性格で早朝から農作業に懸命に取り組み、家族と食卓を囲むうち、西浦さんは自分の敵対心がちっぽけなものに感じた。「憎むべきは人種ではなく、戦争そのものだと気付いた」

 さらに女性から米国の大規模農業を教えてもらうと、現地で学びたいと思うようになった。2年後、農業をする若者の交換留学に応募して渡米し、米農務長官らが参加する現地の式典で、こうスピーチした。

 「私の家は戦火に焼かれたが、今回は武器ではなく農具を持ってやってきました。両国の親善のために尽くします」。盛大に拍手され、生活再建に使ってほしいとお金を渡す人さえいた。カリフォルニア、ミシガン州の4軒にホームステイしながら半年間にわたって農業や酪農、語学の勉強にいそしんだ。

 帰国後すぐにハウスを建て、学んだトマト栽培を開始。米国をモデルにしながら県市の農業団体で地域の連携を深め、各国から研修生のホームステイを自宅で受け入れるようになった。その数はこれまでに80人を超える。

 昨年から市国際交流協会の会長として奔走する。終戦後の75年を振り返って言った。「平和は放っておいても実現しない。歩み寄り、互いに理解し合わないといけません」

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