三田

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広野淡路開拓地。開墾された田畑の奥にテクノパークが広がる=三田市上内神
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広野淡路開拓地。開墾された田畑の奥にテクノパークが広がる=三田市上内神
淡路公会堂に立つ円丁誠一団長の銅像=三田市下内神
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淡路公会堂に立つ円丁誠一団長の銅像=三田市下内神
満州での淡路開拓本部(提供写真)
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満州での淡路開拓本部(提供写真)
田畑を受け継いだ祖父の円丁誠一さんを思い出す仁志さん=洲本市五色町
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田畑を受け継いだ祖父の円丁誠一さんを思い出す仁志さん=洲本市五色町

■終戦後、大陸開拓団が三田に

 太平洋戦争直後、兵庫県三田市は、満州から引き揚げた人々の新天地となった。七つの開拓団が各地の荒れ地を開き、田畑や牧場、道路までも手作りした。それはミニ開発、ニュータウン…と後に続く三田の戦後開発史の源流とも言える。三田の住生活を考える「ネオポリスの螺旋」第2部は、淡路島から満州に渡った開拓者たちが手掛けながら、ニュータウン行政に翻弄された「広野淡路開拓地」の今昔をたどる。(喜田美咲)

 広大な田畑が段丘状に広がる集落の一角に、1軒の平屋がある。「淡路公会堂」。敷地に立つ銅像が大地を見つめている。

 銅像のモデルは円丁誠一さん。淡路島出身の44戸200人超でつくる「広野淡路開拓団」の団長を務め、終戦2年後の1947年から下内神や中内神など3地域の原野を開いた。その広さは100ヘクタールと甲子園球場25個分を上回る。

 当時の機関紙にこうつづっていた。「(満州での)体験を国家の要求する開拓に道を選ぶ事は、自己のためにも日本再建のためにも貢献する唯一の義務」

 前向きな言葉の裏にどれほどの重責があったのか。72年に77歳で生涯を閉じ、その足跡をたどろうと、淡路島に住む孫を訪ねた。

    ◇

 洲本市五色町広石中。斜面に段々畑が連なる風景はどこか広野に似ている。孫の仁志さん(72)が誠一さんの写真を見せてくれた。

 「広石村の村長から満州開拓団の団長になりました。頼られると、どこまでも頑張る人。周囲のために奔走し、家にいることはほとんどなかった」

 どの写真を見ても集団の中央に立つ。村民からの信頼は厚かった。

 開拓団は日中戦争さなかの39(昭和14)年に結成された。多くは農家の次男、三男とその家族だという。洲本市の元中学校長、高倍昭治さん(75)がその経緯を調べていた。

 「当時、淡路島は地主への年貢負担がきつく、裏作の麦にも年貢が課せられていました。小作人1戸あたりの農地も5千平方メートルほどしかなく、頻繁に争議が起きていたんです」

 国は貧しい農民を救い、旧ソ連から満州を守る名目で移住を推奨する。島民を先導する要職を任されたのが円丁さんだった。

    ◇

 満州国錦州省盤山(ばんざん)県(現中国遼寧省盤錦市)。遼河河口の三角州は、今も10万ヘクタールの水田が広がる米どころだ。42年4月、たどり着いた淡路の100戸300人は地平線に続く広大な土地に驚嘆の声を上げた。

 開拓団と言っても満州国の建国から10年が過ぎていた。現地の人々が作ってくれた土壁の家を国から各戸に支給され、さらに田んぼ6ヘクタールずつを与えられた。

 土は掘っても海水しか湧かず、遼河の上流水を水路で引いた。冬には氷点下20度を下回り、夏は黄砂で一面がかすむ。それでも翌年には米が収穫できるようになり、暮らしは安定した。

 44年ごろ、日本の生活品がそろう「満州拓殖公社」に至る線路が撤去され、レールが軍に供出される。不便になる中で、戦況の悪化がささやかれ始めた。

 そして終戦-。ソ連軍が侵攻し、暴徒化した現地の人々の襲撃が各地で始まった。義勇軍として淡路開拓地に入っていた高倍さんのおじはシベリアに抑留される。

 「夢を抱いて見た最初の景色と、全く違う情景が満州に広がるんです。大変なことになった」

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