「みんなどこへ消えたの」震える叫び 広島で被爆、3歳で孤児になった男性が小学生に記憶を語る
2021/12/25 05:30
被爆の記憶を伝える飯田さん=三田市下里
高平小学校(兵庫県三田市下里)の5、6年生33人が、3歳で被爆し、孤児となった飯田國彦さん(79)=広島県東広島市=から戦争の記憶を聞いた。「みんなどこへ消えたの」。震える叫びに、メモを取っていた児童は顔を上げ、耳を傾けた。(喜田美咲)
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新型コロナウイルス禍で広島への平和学習を兼ねた修学旅行に行けなかった6年生のために企画。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館から被爆体験証言者の派遣を受けた。
6年の女児(12)は「想像できないくらい恐ろしい被害があったことを覚えておきたい」。同男児(12)は「いじめをしないなど、身近なところから平和を考えていきたい」と話した。
講演の要旨は以下の通り。
原爆が投下された時、爆心地から900メートルの母の実家(現広島市中区加古町)にいた。満州(現中国東北部)の役人だった父が沖縄の戦地へ行くことになり、母と姉と帰国していた。
庭の池で遊び、ちょうど部屋に戻った時だった。秒速180メートルの爆風で畳と一緒に巻き上げられ、空中を泳いだ。光の後に音が聞こえ「ピカ、ドン」と原爆を表現することがあるが、爆心地から近かったので、光だけしか感じなかった。
みんな生き埋めになった。風が吹いて揺れる木も、走る電車もない。辺りは無音。「お母ちゃん助けて」の声も出ない。しばらくして祖父に掘り出された。
母と姉は髪が全部抜け、体は変色。脚が壊死(えし)していた。隣の部屋で看病を受け、「お母ちゃん」「くにちゃん」と呼び合っていたが、返事が来なくなった。
自分も全身が真っ黒になり、刺さったガラスは7年抜けなかった。1人だけ助かったのは、少ない食事をいつも最初に与えてもらっていたからだと思う。
母と姉の死から2年半後、育ててくれていた祖母が亡くなった時、目を背けていた2人の死を自覚するようになった。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症し、今でも突然、「助けて」と叫び声が出る。医者には「もう治らない」と言われている。
あの時、服が燃え、皮膚がはがれた人が水を求めて川に集まった。一輪車に乗っていた男の子は一瞬で炭になった。血肉が飛び散り何が誰だか分からない。まずはそんな戦争、原爆の恐ろしさを認識してほしい。
そして今もなお、さらに威力の強い爆弾が開発されていることを知ってほしい。攻撃や報復が平和をもたらすことはない。外交努力とコミュニケーションのみが実現できる。
国や宗教など違いを受け入れる。学校の友人関係も同じで、違いを見つけていじめるのではなく「みんな違ってみんないい」ということを忘れないでほしい。