今年は1892(明治25)年に、日本から最初の出稼ぎ契約移民が、仏領ニューカレドニアのニッケル鉱山で坑夫として働くために海を渡ってちょうど130年の節目にあたります。
私はかれこれ20年近くこの日本人出稼ぎ移民の歴史について研究しており、現在、二つの写真アーカイブズを作成しています。一つはフランス、アメリカ、ニューカレドニアの公文書館所蔵の写真から日本人が写るものを集めたもので、もう一つは日系遺族が所有する写真を収集したものです。
私の研究方法は「写真」という視覚メディアが包括する豊かな情報を、史料やいろいろな人からの聞き取りを通して読み解き、移民の実態を解明することです。アーカイブズは研究資料として残すだけではなく、自分たちのルーツを問い続けている日系人に利用してもらうためでもあります。
ニューカレドニアへの契約移民は1919年まで続き、約5700名が旅立ちました。出稼ぎ人の多くは、第1次世界大戦のあおりを受けた本国フランスがデフレに陥ると、鉱山は閉山し、失業して帰国することができなくなります。もともと単身男性に限る出稼ぎであったため、現地女性と所帯を持ち定着する人もいましたが、41年12月、太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、敵性外国人として全財産を没収され、妻と子どもを残してオーストラリアの収容所に移送、5年抑留後、敗戦した日本に強制送還されます。
こうして当時1200名ほどいた日本人のコミュニティーは完全に消滅します。母親が日本人ではなかったこともあって、子どもたちは日本文化や言葉を継承できず、今では完全にニューカレドニアの多民族社会に溶け込んでいます。それでも私のような日本人が訪れると、彼らの中にある日本人アイデンティティーが湧きあがり、遠い昔に生き別れた日本人の父親への複雑な追慕があふれでてくるのです。
昨今、ニューカレドニアはフランスのインド太平洋地域の重要軍事拠点として注目を浴び、自衛隊との共同訓練が話題になりました。さらに、2023年1月、首都ヌメアに日本の領事館事務所が開設されます。1940年から開戦までの2年に満たない期間に帝国領事館が設置されてから初めてのことです。両国の関係は経済、軍事面で今後ますます強くなるでしょう。
だからこそ今、明治時代に出稼ぎから始まったニューカレドニアとの関わりや日系人の体験を、より多くの人に知ってもらいたいと思います。

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