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シベリア抑留の経験を振り返る中野和典さん=神河町
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シベリア抑留の経験を振り返る中野和典さん=神河町
強制労働中の凍傷で第一関節から先を切断した左足の親指=神河町
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強制労働中の凍傷で第一関節から先を切断した左足の親指=神河町

 終戦当日に朝鮮半島沖で沈没した海防艦「干珠(かんじゅ)」。当時16歳の乗組員中野和典さん(91)=兵庫県神河町=は甲板ではね飛ばされ、腰を強く打った。

 「けがのなかったもんは、一緒に来てた海防艦ですぐ内地に帰れたんや」

 気がつくと、元山(ウォンサン)の陸軍病院のベッドに寝ていた。程なくソ連軍が進駐してきた。武装解除した中野さんら日本兵は10月、600キロ離れたスーチャンという炭坑町まで連行される。

 残留兵約100人が同じ収容所で、わずかな黒パンを分け合った。空腹のまま連日、雪山で松の大木を切り倒してふもとまで運ぶ。「そのうち誰かがヘビを腰に下げて山を下りてきてな。ストーブであぶって食いよったわ」。顔をしかめる中野さんも、冬眠中のかたつむりをかき集めるようになった。

 ある朝、寝たきりの同僚の頭にシラミがわいていた。いつものように「元気でおれよ」と声を掛けたが、作業から戻ると息がなかった。収容所の指示で遺体をそりに乗せ、山に運ぶ。コンクリート並みに硬い凍土。たき火で溶かして掘った穴は浅く、遺体を寝かすとつま先が出ていた。

 

 「すぐに野犬がほじくったんちゃうか。墓標も立てられんで、ほんまに申し訳ない。そやけど、あのときは心が正常やなかった」

 作業中に逃げようとした日本人は銃殺され、見せしめで門の前に捨てられていた。「自分の生存を家族に知らせろ」。ソ連側から一度ハガキを渡されたが、中野さんは書かなかった。

   ◇

 「シベリアの 寂しき正月豆汁粉 ふくれて水腹 おならぷっぷ」

 年が明けて46年1月。エンドウ豆でたいた汁粉が振る舞われると、中野さんは心の中で歌ってみた。気は紛れても体はごまかせない。真冬は氷点下20度近くまで冷え込む。破れた布の靴で雪をかきわけていると、左足の感覚がなくなった。「日本の軍医が『ちくっとするで』って」。親指の先の骨を、周りの肉ごとペンチで引き抜かれた。

 凍傷で1カ月入院した後、木材の運搬で使う馬の世話に回された。ウクライナ出身の元騎兵中尉だという大男に、乗馬の基礎をたたき込まれる。1カ月もすると、30頭を草原まで追い立てて草をはませるまでに上達した。

 大男はイワンチンという名前だった。「おやじぐらいの年でようかわいがってくれた」。小柄な中野さんを見て「なんで子どもがここに」と不思議がり、岩塩や雑炊をこっそり分けてくれた。「こういう人とも平気で殺し合わないかんのが戦争」と気付いた。

 抑留生活は丸2年に及んだ。47年10月。中野さんらを乗せ、出港直前の船から日本人が1人降ろされた。理由も、その後生きて帰ってこられたかも知らない。「あの人はどんな気持ちで汽笛を聞いたんやろ」。待ち焦がれたあの日を、今も素直に喜べない。

 復員後は27歳で国鉄に就職し、56歳まで姫路駅で勤め上げた。結婚し、ひ孫も4人いる。最近は耳が聞こえにくくなったが、生き残った者として願い続けている。「暗い暗い青春をな、もう誰にも過ごしてほしくないわ」(井上太郎)

【シベリア抑留】太平洋戦争終戦直前の1945年8月9日、旧ソ連が満州へ侵攻。武装解除した日本人兵士らを拘束し、シベリアやモンゴルの収容所に移送した。戦後復興の労働力不足を補うため森林伐採や炭鉱の採掘、鉄道建設などの重労働を強制。厚生労働省によると、抑留者は約57万5千人で、うち約5万5千人が飢えや寒さで亡くなったとされる。最後の抑留者は56年12月に帰国した。

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