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大竹海兵団で3カ月の訓練を終え、広島県の宮島にある紅葉谷公園で集合写真に納まる中野和典さん(左から3人目)(本人提供)
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大竹海兵団で3カ月の訓練を終え、広島県の宮島にある紅葉谷公園で集合写真に納まる中野和典さん(左から3人目)(本人提供)
終戦の日に朝鮮半島沖で沈没した海防艦「干珠」(大和ミュージアム提供)
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終戦の日に朝鮮半島沖で沈没した海防艦「干珠」(大和ミュージアム提供)

 3千本の桜で彩られた山がすっかり青くなった7月上旬、兵庫県神河町の山麓に夫婦で暮らす中野和典さん(91)を訪ねた。

 「ちょっと見てくれるか」

 応接間でゆっくりと靴下を脱ぐ。左足の親指が、いびつにへこんでいる。「毎日見るから忘れんわ」。凍傷で切断した10代の古傷をさすった。

 雨が降りだした。中野さんは窓を閉めてソファに身を沈め、遠い記憶をたどり始める。

     ◇

 幼い頃に両親を亡くし、田原村(現・福崎町)の祖父母に預けられた。田原国民学校を卒業後、学徒動員で今のJR播但線仁豊野駅近くにあった軍需工場へ。2年勤め、1944年10月に15歳で海軍に志願した。

 「豆潜水艦っていうたかな。『君らは先っぽに爆薬をつけたまま、敵戦艦の横っ腹に突っ込むんや』って。それが私らの役目だと」

 広島県の大竹海兵団で3カ月の訓練を積むと、教官の言葉通り、特殊潜水艇の特攻兵を育てる「大竹潜水学校」への入校が決まった。

 訓練の総仕上げに、3隻のカッター艇で競漕(きょうそう)した。1時間ほどこぎ、宮島の厳島神社へ。参拝する中野さんの胸中は穏やかだった。紅葉谷公園では「遺影になるな」と思いながら、集合写真に納まった。

   ◇

 年が明けると、米軍の爆撃機B29による本土空襲が本格化した。航空機が不足したため、「赤とんぼ」と呼ばれた練習機の特攻兵たちが一斉に潜水学校へ移ってきた。特攻要員から「あぶれた」中野さんは、呉に停泊していた海防艦「干珠(かんじゅ)」の乗組員になる。

 乗り損ねた「豆潜水艦」がどの兵器を指すか今も分からない。例えば、同時期には「人間魚雷」と呼ばれた「回天」の搭乗員募集に1375人が応じ、訓練を受けた。山口県の周南市回天記念館によると、延べ153人が出撃し、80人が命を落とした。

 内心はほっとしたのでは-。そう尋ねると、中野さんは「とんでもない」というふうに手を振って笑った。

  「そんな気持ちはなかった気がするな。干珠に乗るなら乗るでそっちの任務があるさけえ、生きるとか死ぬとか、余計なことは考えへんだ」

 満州帰りの輸送船団を護衛中、対空戦闘を経験した。真っ先に標的となり激しく撃たれる干珠の艦橋で、機関砲の弾を込め続けた。

 「怖さは…なかったな」と振り返る。誇る様子もない。「とにかく戦争に勝つんやと。若い頭に一方的にたたき込まれたから。教育っちゅうもんが、一番怖い」

 45年8月、ソ連の参戦を受け、干珠は北方領土の警備に向かう。日本海を北上中の15日、終戦の知らせを受け、いったん朝鮮半島にある元山の港に入った。

 再び日本に向けて出港した直後、干珠は浮遊機雷に触れて沈没。甲板で跳ね飛ばされた中野さんは、腰を強打して気を失った。

(井上太郎)

【海防艦】対潜水艦警戒や船団護衛のため、太平洋戦争開戦後に多数急造された。「干珠」は1943年に神奈川県の浦賀ドックで完成。南方戦線や朝鮮半島への輸送船団を守った。45年8月15日、朝鮮半島の元山沖で機雷に触れて大破し、3人が死亡、約50人が負傷。干珠は自沈処分となった。負傷者は元山の陸軍病院に入院し、その後の旧ソ連による抑留で19人が行方不明、7人が亡くなったとされる。

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