1939年6月、中国河北省。晴れ渡る空の下、陸軍歩兵連隊の分隊長春江武雄(33)は激しい弾雨をかわしながら、山中を前進していた。
敵の背後に回り込み、谷から動向をうかがう。不意に手りゅう弾が投げ込まれ、傍らの仲間を襲った。
破片が胸を貫通し、手の施しようがなかった。「名誉の戦死」。そう受け止めた春江は、遺体を担いで先を急いだ。
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45年2月、深夜の熊谷陸軍飛行学校宇都宮分校(宇都宮市)に、けたたましいサイレンが響いた。
跳び起きた少年飛行兵の堀尾幸二(15)は小銃を手に、急いで配置に就く。通称「たこつぼ」。丸く小さな塹壕(ざんごう)に身を潜め、低空まで迫り来る米軍航空機グラマンを迎え撃つ。
「サイパン島が陥落した」と聞いたし、最近、3日に1度はこの調子だ。一体、何人の仲間がやられただろう。でも誰一人、「負け戦」とは言わなかった。
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手りゅう弾と竹やりを渡された海軍航空隊整備兵の三枝利夫(17)は絶句した。「こんなもんで、どうやって戦うんや」
45年4月、沖縄。連合国軍が上陸し、激しい地上戦が始まっていた。
ぬかるみに足を入れると、腐った人肉がまとわりつく。ボウフラが湧いているような水も飲んだ。日中は壕(ごう)に隠れて爆撃をやり過ごし、夜に反撃する。野生動物のように暗闇でも目を利かせ、気配を感じ取った。「捕虜にだけはなるまい」。自決用の青酸カリを握りしめる。
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45年5月。鳥取県の美保海軍航空隊では、まだ駆け出しの予科練生約720人が兵舎に集められた。
淡々と戦局を説明した教員は、全員に目をつむるよう促した。「現状を鑑み…」。静寂が辺りを包む。「特攻へ志願する者は手を挙げよ」。それ以上の説明は何もなかった。
四方から次々と、制服の袖が擦れる音が聞こえてくる。「死ぬとか、特別なことじゃない」。内藤清(16)はほぼ反射的に、右手を真っすぐ上へ伸ばした。
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北方領土の警備を命じられた海防艦「干珠(かんじゅ)」は、呉(広島県)の港をたち、日本海を北上していた。
45年8月15日、敗戦の知らせを受け、朝鮮半島の元山(ウォンサン)に寄港する。
程なく、再び日本へ向けて出港した。上甲板に立った乗組員中野和典(16)は帽子を取り、港に向かって大きく振った。見送りの一行が徐々に小さくなってきた。
「終わったんや」。こみ上げた感慨は直後、ごう音とともに消え去った。
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太平洋戦争の終戦から75年。あの夏ははるか遠く、記憶は年々薄れる。兵庫県の姫路・西播地域に暮らす人々も各地で従軍し、死と隣り合わせの日々を過ごした。巨大な運命に翻弄(ほんろう)されながら、懸命に生きた当事者と遺族の証言に耳を傾け、平和の意味を考える。(敬称略。肩書、年齢は当時)
