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日中戦争で亡くなった春江武雄さんの墓を訪ねた長男進さん=佐用町末広
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日中戦争で亡くなった春江武雄さんの墓を訪ねた長男進さん=佐用町末広
出征する武雄さんを囲んで撮られた家族写真。前列左端が当時6歳の進さん=1938年6月
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出征する武雄さんを囲んで撮られた家族写真。前列左端が当時6歳の進さん=1938年6月
神戸新聞NEXT
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 JR姫新線を背にした兵庫県佐用町末広、島脇集落の墓地で、その墓石はひときわ大きかった。

 「故陸軍歩兵曹長 勲七等功六級 春江武雄之墓」。頂点がとがった軍人特有の墓。陸軍を表す星マークが付いている。長男の進さん(88)=たつの市=は「車を手放してから墓参りもなかなかできない。雑草だらけで父に申し訳ない」と恥じた。

 春江家は江戸時代から続く自作農だった。武雄さんは1906年に長男として生まれ、日中戦争が泥沼化した39年6月に北京郊外で戦死した。

 存命なら114歳。世界一の男性長寿者よりも年上のため、もはやこの世代から直接話を聞くことはできない。武雄さんが残した日記や書類、幼かった進さんの記憶から、軍国主義が強まる時代を生きた1人の下士官の軌跡を追体験してみよう。

     ◇

 学業優秀で小学校を首席で通し、農業補習学校を卒業した武雄さんは20歳で徴兵検査を受ける。通常なら姫路の陸軍第10師団に入るはずが、近衛歩兵第3連隊に抜てきされた。首都を守る天皇直属の部隊。当時は大変な栄誉とされた。

 武雄さんは日記に入営生活を小まめにつづった。きちょうめんな性格がうかがえる。28年5月4日のページには「日支大戦で三十五人が死傷」とある。田中義一内閣が行った第2次山東出兵を指すが、巻き込まれることなく、翌月に上等兵に昇進して除隊した。

 「各地から選抜された名誉ある近衛兵であることから地方においても模範となれ」。連隊長の訓示を受けた武雄さんは「帝都の地が恋しくなる気がして涙も落ちる」と記している。

 帰郷した武雄さんは在郷軍人として村の青年のリーダーとなっていく。稲作や養蚕に精を出し、24歳で結婚。3年後の32年5月15日に長男の進さんが生まれた。まさにこの日、東京では犬養毅首相が暗殺された。

 進さんは「五・一五事件の日に生まれたことには数奇な運命を感じる。父にとっては、故郷で平和に暮らせた時期。日記も農作業のことばかりで、自分の未来が暗転するとは思っていなかっただろう」と話す。

 武雄さんは、姫路で就職した弟が徴兵検査で不合格になったことを「大変幸運であると思った」と率直に書いている。進さんが生まれてからの描写も家族愛にあふれている。

 「子供が丈夫になってくるのが実に楽しみで、毎日の仕事も大変面白く働く事が出来る。何時も帰って子供の顔を見なければならぬような気がする」

 一方で、世情はきな臭さを増していた。31年に起こした満州事変をめぐって、米英などとの対立を深めた日本は33年3月に国際連盟を脱退。37年7月の盧溝橋事件を発端に、日中戦争に突入していく。

 そんな状況を知ってか知らずか、穏やかな生活を送っていた春江家に「臨時召集令状」が届いたのは38年6月。いわゆる「赤紙」だ。それまで訓練のため定期的に召集されていた武雄さんは、下士官の資格を得ていた。(直江 純)

【臨時召集令状】満20歳で徴兵検査を受け、2年間の兵役を終えた在郷軍人や、20歳で兵役に就かなかった人を軍に編入する令状。赤い用紙が使われたため「赤紙」と呼ばれた。はがき料金に例えて「兵隊の命は一銭五厘で替えが効く」などと言われたが、実際には市町村職員が自宅まで直接届けていた。

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