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「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)に、妻の遺影を手に出席する下桶敏之さん=6日午前、広島市中区、平和記念公園
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「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)に、妻の遺影を手に出席する下桶敏之さん=6日午前、広島市中区、平和記念公園
「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)に出席する下桶敏之さん=6日午前、広島市中区、平和記念公園
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「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)に出席する下桶敏之さん=6日午前、広島市中区、平和記念公園
下桶佳子さん
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下桶佳子さん

 6日に広島市で開かれた平和記念式典には、兵庫県遺族代表として宝塚市逆瀬台の下桶敏之さん(86)が出席した。敏之さんも7年前に82歳で亡くなった妻佳子さんも広島原爆の被爆者だが、式典に参加するのは初めて。この日、持参した遺影に「一生懸命よく生きたね」と語り掛けた。

 敏之さんは中学2年の時、爆心地から約1・7キロ離れた学校で朝礼中に被爆した。鋭い閃光と噴き出るような激しい火花に吹き飛ばされ、気を失った。自身に大きなけがはなかったが、同級生約200人の多くが重いやけどを負い、年末までに約60人が死亡した。

 1950年、日本銀行広島支店に入行。3歳上の同僚だった佳子さんと出会い、交際が始まった。互いの身上を話すうち、佳子さんも被爆者だと知った。

 佳子さんは学徒動員で爆心地から約2・3キロの工場に勤務。建物の下敷きになり、背中に大きな傷跡が二つあった。自宅は爆風で壊れ、爆心地近くに勤めていた姉も被爆した。「当時は世間では差別もあり、自分が原爆に遭ったなんて言えなかった。妻もつらい経験をしてきたのが分かった」

 57年に結婚し、4年後には転勤先の東京で長女が生まれた。佳子さんは「原爆に遭ったから結婚できないと思ってた。こんなかわいい子を授かるなんて」と心から喜んだ。転勤を重ね、76年に宝塚市に落ち着いた。

 佳子さんは両親や姉らを病気で次々と亡くした。「原爆に遭い、身寄りもないから」と広島には戻りたがらなかったそうだ。

 2002年に肝炎を発症後、胃や脚の静脈瘤、肝硬変、肝臓がんなど長い闘病生活が続いた。敏之さんは国に原爆症認定を求めて奔走。10年3月にようやく認められたが、その月、佳子さんは絶命した。

 「米寿まで一緒に生きようね」。新婚旅行でそう約束した時の幸せそうな顔が今も脳裏に焼き付く。「戦争がどれだけ人を苦しめ、原爆がどれだけ恐ろしいものか。若い人にあの苦しみを味わわせたくない。戦争と核兵器というのはあってはいけない」。敏之さんは涙を拭って訴えた。(長谷部崇)

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