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「被爆体験を話したら『人生が終わる』と思っていた」。差別への恐怖を、和田文雄さんはそう振り返る=神戸市西区
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「被爆体験を話したら『人生が終わる』と思っていた」。差別への恐怖を、和田文雄さんはそう振り返る=神戸市西区

 4歳の時に長崎で被爆した和田文雄さん(76)=神戸市西区=は、差別におびえ、体験を伏せて戦後を生きてきた。8年ほど前、原爆症の認定訴訟に加わって実名を公表したが、「被爆者」でくくられることに今も抵抗感が残る。72回目の8月9日。「人生を大きく変えられた日なのに、あの日で時が止まったままのようにも感じているんです」

 爆心地から2・1キロの自宅にいた。衝撃で落ち込んだ畳の間に挟まったが、母が引っ張り出してくれた。

 ロウにくるまれたような遺体が川沿いに折り重なり、皮膚が焼けただれ、眼球が飛び出た女性に「水をちょうだい」と声を掛けられた記憶が残る。

 親戚がいた大分県に家族で転居。5年後、父が血を吐いて亡くなったとき、見舞いに来た叔母は玄関から上がろうとしなかった。小学校の同級生に「あいつと遊んだら原爆の病気がうつるぞ」とからかわれた。

 家計を支えるため、中学校を卒業すると働き始めた。19歳で神戸に移り、化学機器メーカーに就職。同僚らから出身地を尋ねられると「大分」と答えた。

 29歳の時、見合いで出会った妻と結婚した。正直に「長崎で生まれた」と打ち明けた。妻は受け入れてくれたが、親族が原爆の影響を気に掛けた。健康診断の「異常なし」の結果を持参して納得してもらった。

 「自分一人で太刀打ちできる問題ではない」。人並みの生活を送るためには、被爆体験を隠し続けるしかないと心に決めた。

 50代の頃から、全身の気だるさに悩まされるようになり、2007年に「甲状腺機能低下症」と診断される。08年に運用が始まった原爆症の「新基準」で積極認定の対象となったが、国は因果関係を認めず却下。認定訴訟の原告に加わり、13年に「却下取り消し」の判決を得た。

 この訴訟を通じて、和田さんは実名を公表した。1998年、白血病になった母が、父と同じように血を吐いて亡くなっており、「原爆に苦しめられた両親の姿も含めて訴えるためには、名前を出さないと説得力がないと思った」という。勤務先を既に定年退職していたことも大きかった。

 だが、「差別への恐怖心は今も消えていない」と和田さんは言う。時代の流れとともに被爆者への理解は深まったが、「特異な体験をした人」という、現実から切り離されたような意味合いが強まっているようにも感じる。

 「世の中に普通に生を受けただけなのに、長崎にいたばっかりにね。振り返ると、『何でこんな人生なんだろう』って悲しくなることがあって」

 一方で、少しずつ心境に変化が出てきた。被爆後、中学校の修学旅行でしか立ち寄っていない長崎を、もう一度訪れてみたいと強く思うようになったという。

 2年前には、長崎市役所に問い合わせ、暮らしていた当時と現在の地図を送ってもらった。体調が優れず、訪問はまだ実現していないが、「原爆を落とされた故郷がどう変わったかを確かめたら『生きててよかった』って思えるような気がするんです」と話す。(小川 晶)

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