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講演会が終わって語らう千玄室さん(左)と横家諒介さん=京都市上京区
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講演会が終わって語らう千玄室さん(左)と横家諒介さん=京都市上京区
横家諒介さんの大叔父が教えた搭乗員。特攻の前に茨城県の百里原海軍飛行場で撮影されたとみられる(横家さん提供)
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横家諒介さんの大叔父が教えた搭乗員。特攻の前に茨城県の百里原海軍飛行場で撮影されたとみられる(横家さん提供)

 太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった1944(昭和19)年秋、日本陸海軍の航空機による「特攻」が始まった。人間が兵器の一部となって体当たりする戦法は、多くの若者の命を引き換えにした。終戦から72年。特攻の体験者が少なくなる中で、私たちは何をどう語り継いでいけばいいのか。彼らの伝言に耳を澄ませたい。(森 信弘、小川 晶、杉山雅崇)

 6月下旬、京都市の同志社女子大で開かれた講演会。終了後、笑顔で言葉を交わす白髪の男性と若い男性の姿があった。海軍の元神風特攻隊員であり、茶道裏千家の前家元、千玄室さん(94)と、主催した学生団体代表で同志社大4年の横家諒介(よこやりょうすけ)さん(24)=神戸市灘区=だった。

 「学徒から学生へ-つなぐべき記憶のバトン」と題した講演会には約800人が参加し、大学生も200人ほどいた。「よくやってくれたね」。記念写真を撮ろうとするファンに囲まれた千さんは、横家さんをねぎらった。

 横家さんは中学2年のとき、テレビ番組を見て特攻隊に興味を持った。当時は病気で学校にも行けず、命を投げ出して戦った隊員に憧れを抱いた。だが、海軍のパイロットで教官だった大叔父が残したアルバムを見て驚いた。「勇ましく出撃」の文字が添えられ、写真に納まる大叔父の教え子は、まだあどけない顔をしていた。「自分たちと同じような若者ではないか」

 彼らは何を思っていたのだろう。高校生になってから元隊員たちに会い、話を聞いてきた。「若い世代に自分の経験を伝えられないのが心残りだ」。そんな言葉に背中を押され、講演会を企画した。

      ◇

 「私たちは、お国のためというより、愛する家族が幸せであるようにと思っていた」。登壇した千さんは、同志社大在学中の43(昭和18)年の学徒出陣により、海軍第14期飛行予備学生となった当時を振り返った。

 徳島海軍航空隊に派遣され、練習機「白菊」の訓練を受けた。実戦を想定していなかった白菊は最高速度が230キロと、ゼロ戦の半分以下しかない。その機体に250キロ爆弾を二つ搭載し、敵艦に体当たりさせようとしていた。

 45(昭和20)年5月、いよいよ沖縄戦の前線基地がある鹿児島県へ向かうことになった。千さんがお茶をたて、仲間で「お茶会」を開いた。すると京都大出身の1人に「生きて帰ったら、茶室で茶を飲ませてくれよ」と言われ、われに返った。自分たちは「生きて帰れない特攻」だった。

 そこには、後に俳優として活躍した故・西村晃さんもいた。西村さんは、茶を飲むと立ち上がって「お母さーん」と叫んだ。みんなで口々に叫んだ。

 「徳島白菊隊」は、特攻で56人が亡くなった。出撃の機会がなかった千さんは、当時の自分と同じ大学生に語り掛けるように胸の内を吐露した。「生き残って毎日、じくじたる思いで生きてきた。みんなが『千よ。本当の平和が来るよう頼むで』と叫んでいる」

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