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王敬祥が輸出したアヘンを戒めるマッチ箱の表面(田中マッチ提供)
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王敬祥が輸出したアヘンを戒めるマッチ箱の表面(田中マッチ提供)
漢方薬の服用方法が記された裏面(田中マッチ提供)
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漢方薬の服用方法が記された裏面(田中マッチ提供)
マッチを輸出した王敬祥
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マッチを輸出した王敬祥

 全国シェア9割近くを占める兵庫の地場産業「マッチ」。1877(明治10)年に神戸で生産が始まり、日本を代表する輸出品として神戸港から海を渡った。神戸華僑の力も大きかったとされ、その一人、王敬祥(1872~1922年)は、アヘン中毒者に苦しんでいた母国を救おうと、中毒から抜け出す方法を箱に記したマッチを輸出した。戦争で傷ついた母国を復興させようとした華僑の思いがうかがえる。保管する「田中マッチ」(姫路市飾磨区)の田中憲司社長(61)は「世界初の啓発商品なのでは」と評価する。(阪口真平)

 英国の通商戦略で19世紀初めごろから、インド製のアヘンが大量に出回り、中毒者がまん延していた中国(当時・清)。アヘン戦争(1840~42年)やアロー戦争(56~60年)まで起こり、国力は疲弊していった。神戸市垂水区の孫文記念館の蒋海波主任研究員によると、アヘンの代替品としてたばこが紹介されるほど、被害は拡大していったという。

 田中マッチによると、王氏が輸出したマッチ箱は縦約5・7センチ、横約3・6センチ、高さ約1・7センチで、現在の大きさと同じ。2ケースのみ現存し、1906年ごろから製造が始まり、王氏が経営していた貿易会社「復興号」が輸出した。箱の表面には中毒者に効果があるとされる漢方薬の図柄があり、裏返すと中国語で「スープとして煎じる」などと服用方法が記してある。

 マッチは当時の中国の日当より高価だったが、一部は無料で配られた。田中マッチ初代社長の故田中竹次も王氏に賛同し、一部は無償で製造を請け負ったという。

 王氏は辛亥(しんがい)革命を目指していた孫文に対して、金銭の支援もしており、孫文への200円分の借用書や共に写った写真も残っている。王氏の孫の王柏林さん(88)=明石市=は「マッチ箱のラベルを使って、戦争で傷ついた中国を日本から立て直したかったのだろう」と推し量る。

 蒋主任研究員によると、当時の一般的なマッチ箱は、商品や会社名を記す広告や、縁起のいい絵を描いた娯楽メディアとしての役割を果たしていたという。「社会的意義のある広告を出すことは珍しく、同種の広告で現存するのはこの1品のみ。ただ、この薬草に効果があったのかは不明だ」と解説する。

 神戸大の安井三吉名誉教授(中国近現代史)は「華僑の人が母国が良くなっていくことを願っていたことの表れ。当時の感情を理解する手がかりになるものだ」と話している。

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