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手話と身ぶりで神戸空襲の悲惨さを伝える山村賢二さん=17日午後、神戸市兵庫区今出在家町4(撮影・中西大二)
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手話と身ぶりで神戸空襲の悲惨さを伝える山村賢二さん=17日午後、神戸市兵庫区今出在家町4(撮影・中西大二)
山村清左衛門さん
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山村清左衛門さん

 米軍B29爆撃機が神戸市上空を覆い、焼夷弾が市西部に甚大な被害をもたらした神戸空襲から、17日で73年となった。その後も続いた空襲で父を失った聴覚障害者の山村賢二さん(86)=同市灘区=は、戦火に逃げ惑った日々を写真に収めたかのように鮮明に覚えている。この日、同市兵庫区の薬仙寺で営まれた神戸空襲の合同慰霊祭。山村さんは手話通訳を介し、「音のない空襲」の記憶を懸命に伝えた。(上田勇紀)

 「おきなさい」「くうしゅう、くうしゅう」

 山村さんは1945(昭和20)年3月17日未明、葺合区(現・神戸市中央区)の自宅で母に揺り起こされた。4、5歳のとき、はしかによる高熱で耳が聞こえなくなった。当時、兵庫県立聾唖学校(現・県立神戸聴覚特別支援学校)に通う13歳。母の口の動きで事態を理解した。

 家族6人で山中の谷へ逃げ込み、B29が次々落とす焼夷弾を見た。「花火みたい」。顔を上げると、母に押さえつけられた。

 空襲の本当の恐ろしさを知ったのは6月5日。市東部を中心に爆撃され、都市機能がまひしたこの日を、山村さんは垂水区にあった同校寄宿舎で経験した。

 朝食後、教師が白旗、続いて赤旗を振った。白旗は「警戒警報」、赤旗は「空襲警報」の合図。すぐ防空壕へ潜り込んだが、激しく揺れて砂が降ってきた。壕を出ると、寄宿舎や校舎が燃えていた。山村さんらは必死で逃げ、田んぼに駆け込んで一命を取り留めた。

    □  □

 父清左衛門さん=当時(41)=の遺体と対面したのは翌日だった。家に戻る途中に母と会い、遺体安置所となった葺合区の学校へ。運動場には、数多くの遺体が並んでいた。

 「お父さんや」

 こめかみはぱっくりと割れ、紺色の国民服は黒焦げに。腰には母が作った弁当を付けたままで、両足の膝から下はなかった。

 「なんで早く逃げんかったん」。涙がこぼれ落ちた。近所が爆撃され、延焼を防ぐため、父は家族を逃がして消火に当たっていたという。初期消火をせずに逃げれば、「逃避者」と批判される時代だった。

 「お前は耳が聞こえないんだから、必ずお母さんと一緒にいなさい」。父は聴覚障害のある山村さんをいつも心配していた。会話の手段は、口の動きを読み取る口話。「アメリカは大きな国だから(勝つのは)無理。でも誰にも言ったらだめだよ」。そう言われたこともあった。

 避難先の伊丹市でも空襲に遭い、滋賀県で終戦を迎えた。戦後は神戸に戻り、紳士服の仕立職人として75歳まで働いた。空襲で目にした光景は、ずっとまぶたに焼き付いたままだった。

 今回、市民団体「神戸空襲を記録する会」から講演を依頼された。約80人を前に手話で当時の様子を克明に伝え、「(遺体と対面したとき)顔を見たら父だったので、とてもつらかった」と振り返った。懸命な身ぶりと表情には、70年以上たっても癒えない悲しみが強く宿っていた。

 【神戸空襲】 1945年、米軍B29爆撃機による無差別爆撃が本格化。東京や大阪に続き、3月17日未明には神戸で大規模な空襲があり、市西部が壊滅状態となった。甚大な被害が出た5月11日や6月5日など、空襲は8月15日の終戦間際まで繰り返され、神戸全域が焦土と化した。死者は8千人以上とされるが、正確には分かっていない。

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