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 長崎市で生まれ1歳11カ月で被爆した兵庫県加古川市の女性(74)が9日、長崎市の平和祈念式典に初めて参列した。結婚後、母が送った被爆者健康手帳で自らも被爆者だと知った。差別や偏見を恐れ、夫と子ども以外には、身内や友人らに打ち明けたことはない。それでも「悲劇を繰り返さないため自分にできることがあるのでは」と思い立ち、平和公園にやって来た。

 「家のガラス窓にピカッと映った光」。73年前、爆心地の南西約4キロの自宅近くで、女性は遊んでいた。原爆の記憶は、突如走った閃光(せんこう)のまばゆさだけだ。

 小学生の時、母から原爆投下時の話を聞いた。「あなたを抱え床下の防空壕(ごう)に逃げた」「荷車に乗せ、1日がかりで郊外の親戚宅へ避難した」。しかし、自身や母が被爆したとは一度も告げられなかった。

 女性は20代前半、仕事の都合で神戸へ移住し、結婚した。30歳を前にしたある日、長崎の母が突然「被爆者健康手帳を作った」と連絡してきた。送られた手帳を手にして数カ月間、夫に告げるべきかどうか迷い続けた。覚悟を決めて話すと、夫はすんなりと受け入れてくれた。「あの時の夫の態度に救われた」

 しかし「差別されるのでは」との恐れは拭いきれなかった。息子に話したのは10年前。息子が30代後半になってようやく切り出せた。同居していた義母には最期まで打ち明けられなかった。友人ら周囲にも隠し続けてきた。

 5年前、相談に訪れたことがきっかけで「加古川市原爆被爆者の会」の運営を手伝い始めた。活動の一環で広島の平和記念式典に参加するうち「自分も長崎で死者を弔いたい」と思うようになった。夫と息子に相談すると「気が済むようにしたらいい」と快く送り出してくれた。

 8日、長崎に向けて出発。新幹線の車中で亡き母のことを思い、心が揺れた。「もっと話してくれればよかったのに」と思う半面、「何も知らなかったから子どものころに楽しく過ごせた」とも。

 会場で胸元に白いバラを挿した。「被爆者への差別が激しかった時代、母がどんな思いで私を育ててくれたのか」。感謝がこみ上げ、胸が熱くなった。「子どもたちに記憶を伝えなければ」。つらい過去を背負う人たちとともに手を合わせた女性にそんな決意が芽生えた。(真鍋 愛)

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