総合 総合 sougou

  • 印刷
事故発生時からの新聞ファイルを手に、14年の歩みを振り返る藤崎光子さん=大阪市北区
拡大
事故発生時からの新聞ファイルを手に、14年の歩みを振り返る藤崎光子さん=大阪市北区

 尼崎JR脱線事故で一人娘を亡くした藤崎光子さん(79)=大阪市城東区=は、事故から間もなく遺族や負傷者に呼び掛けて「4・25ネットワーク」を結成し、JR西日本の対応に厳しい視線を向けてきた。昨年夏にがんが見つかり、今も治療に耐えながら活動を続ける。「つらくとも、風化を防ぐために頑張りたい」。あの日から間もなく14年。今年も事故現場で、亡き娘の声に耳を傾ける。(田中真治)

 事故の起きた2005年4月25日、藤崎さんは経営する大阪の印刷会社で長女の中村道子さん=兵庫県川西市、当時(40)=の出勤を待っていた。「事故に巻き込まれたのかも」。遺体安置所となった尼崎市の体育館で、3日目に会うことのできた娘は、心の中で「違う」と叫ぶほど、変わり果てた姿だった。

 告別式で「残りの生涯を責任追及にささげる」と誓った。1991年に起きた信楽高原鉄道事故の遺族の活動は、同事故に関する印刷物を請け負ったことからよく知っていた。遺族や被害者の連携の必要を教えられ、JR西や国との“闘い”が始まった。

 事故調査報告書でJR西の企業体質が指摘されたが、国の監督責任に踏み込まなかった点などに不満が募った。今年から4月25日の追悼慰霊式の会場となる「祈りの杜(もり)」が現場に整備されることにも「事故の悲惨さが感じられなくなる」と反対した。乳がんが判明したのは、その整備の完了が近づいた昨年7月。道子さんが残した、ただ一人の孫の結婚式が数日後に控えていた。

 早期の発見だったが、ショックで気持ちの整理がつかず、誰にも明かさず式に列席し、手術にも臨んだ。抗がん剤治療が始まると、左手足がむくみ、体の痛みで眠れない日々が続いた。今年2月、交流を続ける韓国・地下鉄火災遺族を訪問する予定も、当日起き上がれなくなり、諦めた。世話人を務める4・25ネットの事務所にも、足を運ぶ回数が減った。

 「本当は事故以来、死ぬことばかり考えていた。でもやっぱり、まだ死ぬわけにはいかない」と藤崎さん。企業や団体の刑事責任を問えるようにする「組織罰」の実現を目指し、気持ちを奮い立たせる。事故関連の新聞記事なども、後世に引き継ぐため、痛む手で整理を続ける。

 25日は事故が起きた午前9時18分に現場で祈るが、慰霊式の会場には入らないつもりだ。「道子はいつも私と一緒にいる。『安らかに眠りたくなんかない』って言うでしょうね」。藤崎さんに、心の和解は訪れていない。

総合の最新
もっと見る

天気(5月24日)

  • 28℃
  • 18℃
  • 10%

  • 31℃
  • 12℃
  • 10%

  • 30℃
  • 18℃
  • 0%

  • 32℃
  • 16℃
  • 10%

お知らせ