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手向けの花を携えて追悼慰霊式に向かう菅尾美鈴さん(右)と美和さん=25日午前7時36分、神戸市東灘区(撮影・秋山亮太)
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手向けの花を携えて追悼慰霊式に向かう菅尾美鈴さん(右)と美和さん=25日午前7時36分、神戸市東灘区(撮影・秋山亮太)

 これまでとは違う「4・25」の朝を迎えた。尼崎JR脱線事故の現場で、初めて開かれた追悼慰霊式。快速電車が激突したマンションは大きな屋根に覆われ、一帯は「祈りの杜(もり)」に姿を変えた。でも、脳裏に焼き付く14年前の光景は変わらない。愛する人の最期の場所。悲しさも悔しさも、大好きだったあの笑顔も。息子を亡くした母は昨秋できた慰霊碑を前に「やっと帰ってこられたね」と語り掛け、願った。「電車の安全を見守ってね」

 今年は特に胸が締め付けられそう-。尼崎JR脱線事故で長男を亡くした菅尾美鈴さん(70)=神戸市東灘区=は、そんな思いを抱きつつ現場で初めて開かれる追悼慰霊式に向かった。ここに来ると、あの日に引き戻される。癒えぬ悲しみが、一層増す。それでも約束した。「あなたのそばに行くまでは精いっぱい生きるからね」

 2005年4月25日、会社員だった長男吉崇(よしたか)さん=当時(31)=は川西池田駅から1両目に乗車した。「出社されておりません」。勤務先から連絡を受けた菅尾さんは、遺体安置所となった尼崎市の体育館に駆け付けた。何度もメールを送った。何度も電話をかけた。しかし、返事が届くことはなかった。

 体育館に運ばれてきた吉崇さんは裸の状態だった。服や持ち物は袋にまとめられ、そばに置かれていた。「なぜこんな格好をさせられているの」。思わず立ち尽くした。「痛かっただろう。抱いてあげたかった。でも抱けなかった」。記憶が消えることはない。

 事故から14年。ここ数年は喪失感が一段と募ってきた。「年齢を重ねる度に悲しさに耐えられなくなっている」。古希を迎えた菅尾さんが声を絞り出す。

 体調を崩すことも増え、その度に吉崇さんの姿が浮かぶ。熱が出るとすぐに川西市から駆け付け、うどんを作ってくれた。「僕が面倒を見てあげるからね」。そんな言葉を掛けてくれる、優しい息子だった。「今、あの子が生きていたらどうしてくれたかな」。想像すると、涙がこぼれる。

 この日、菅尾さんは長女美和さん(39)と式典に出席した。思い出すのがつらく、参加したくない気持ちがある一方で「息子の痛みを共有するためにも行ってあげないと」と感じる。

 会場の「祈りの杜(もり)」には、自身が制作し、JR西に寄贈していた折り紙の「連鶴(れんづる)」が電子作品として展示されている。親鶴を中心に事故で亡くなった人数と同じ107羽の鶴が連なる作品で、「1人ではないよ」との意味を込めている。

 「みんなとつながっていて寂しくないよね」。自らに言い聞かせるように、天国の吉崇さんに問い掛けた。(篠原拓真)

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