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原田雅彦さん=那覇市内
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原田雅彦さん=那覇市内

 1998年の長野五輪スキージャンプ団体で、日本の金メダルを決定づけた原田雅彦さんの大ジャンプは、直後の「ふなき~」とむせび泣く姿とともに、平成スポーツ史の名場面として記憶される。原田さんは94年のリレハンメル五輪で、目前の優勝を失敗ジャンプで逃していた。長野は自国開催で優勝候補。計り知れない重圧とどう闘ったのか。来年の東京五輪・パラリンピックへのエールを込めて、語ってもらった。(永見将人)

 -長野五輪で「ふなき~」と泣く姿に、言葉にならない重圧を感じました。

 「崖っぷちでした。でも、あれは『今から船木(和喜選手)が飛んで金メダルを取るから、(取材は)ちょっと待って』という意味の『ふなき~』だった。なのに、そこばかり編集されてしまって」

 「長野のジャンプ台では何年も前から合宿を重ね、何千本、選手によっては何万本飛んで、ジャンプ台の癖とかスピードの出方、風の具合とか、すべてを体にたたき込んで臨んでいた。団体戦では、間違いなく日本が1位だという状況をつくりあげてきたのに、想定外の天候で。激しい雪などで、1回目は私も船木選手も距離を落とした。どんどん窮地に追い込まれていました」

 -それでも大ジャンプが飛び出します。

 「条件がそろったら飛べる自信があった。2回目のスタート台に座った時、落ち着いていたのを覚えている。『距離が伸びる状況がきたな』と感じた。不安がなかった。楽しめたんだと思います」

 -長野の前のリレハンメル五輪とは違っていた?

 「そうですね。経験も技術も違います。リレハンメルでも自分では、重圧を克服できる力があると思っていました。若い頃からたくさんの経験をしていましたし。それでも『金』を意識した時、はね返せない重圧がのしかかっていたと思います。『うまくコントロールしている』と思ってスタートラインにいましたけど」

 「準備不足ですよね。ずっと成功と失敗の差が激しかったのですが、技術的な不安を冷静に分析して改善するのではなく、(大ジャンプを)飛べているからいいじゃないかと思っていた。それが、優勝を目前に自分をコントロールしきれなくなった。隠しきれない不安によって硬くなったのかな。今では、そう振り返ります」

 -リレハンメル五輪後、踏み切りの許容範囲を広げるなど試行錯誤を重ねた、と聞きました。

 「4年に1度の五輪で成功するなんて、都合のいい話です。メダルは向こうから来るんだと思うんです、狙いにいくというよりも。今の人たちは長期計画とか言うけれど、私なんかは毎年、毎年をがむしゃらに無我夢中でやってきたら、リレハンメルや長野でチャンスが巡ってきた、という感覚です。メダルが寄ってきた時に、ものにできるかどうか」

 -東京五輪でも、ものを言うのは積み重ねだ、と?

 「もうこれ以上ないぐらいの準備をしてほしい。この前、5月11日の世界リレー大会で(男子400メートルリレーの)日本チームがバトンパスをミスしちゃったじゃないですか。前回のリオデジャネイロ五輪は銀メダルで、東京五輪では相当な期待がかかるだろうし、そこでバトンを落としたら…。見てて思ったなあ、よかった、あの人たちはまた一つ準備ができたって」

 -五輪を1年後に控え、原田さんの関心はどこにありますか。

 「選手によっては(ピークが)東京じゃない人もいる。最近、なんでも東京、東京でしょ。個人的には『私は興味ない。その次の五輪です』という人が出てこないかなと思っています。長野五輪も、スキージャンプにとっては輝かしい歴史ですが、あの時、歯を食いしばっていた選手がたくさんいました。(13位に終わった)荒川静香さんもその一人です。低迷していた日本のフィギュアはあの後、どん底からはい上がって、今やもう。東京五輪でもそう。今は卓球だ、バドミントンだと騒いでいるけれど、東京の後に出てくる種目が、そして選手がいますよ」

【はらだ・まさひこ】1968年、北海道上川町生まれ。92年から五輪5大会連続代表。94年リレハンメルで団体銀。98年長野では団体金、個人ラージヒル銅。現在、雪印メグミルクスキー部監督。

◇記者のひとこと

 「ハッピーハラダ」と欧州でも人気の笑顔。現役時代、ある意図があったという。「目立って流れを引きこむ。知らない土地でも主導権を握る存在感がないと、結果は出せない」。勝負師の一面がのぞいた。

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