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古い桟橋を背に、母や父に思いを巡らせる黄光男さん=岡山県瀬戸内市邑久町
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古い桟橋を背に、母や父に思いを巡らせる黄光男さん=岡山県瀬戸内市邑久町
1956年ごろの家族写真。黄光男さん(中央)や母親(右)が笑顔で写る=大阪府吹田市
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1956年ごろの家族写真。黄光男さん(中央)や母親(右)が笑顔で写る=大阪府吹田市

 患者の強制隔離などを定め、差別や人権侵害を引き起こした「らい予防法」が廃止されたのは、1996年のことだ。国の加害責任を認める司法判断を受け、2001年、国は患者に謝罪した。だが、患者の家族の苦しみは放っておかれたままだ。16年、患者家族は国に謝罪と賠償を求める裁判を熊本地裁に起こした。今月28日の判決を前に、原告たちに話を聞いた。(中部 剛)

 瀬戸内海に浮かぶ岡山県瀬戸内市の小さな島に、国立療養所「長島愛生園」はある。長年、ハンセン病の患者たちが収容され、今も元患者が暮らす。

 「母はここから入ったんかな。悲惨な気持ちだったんでしょうね。息子と離れ離れにされ、人生をあきらめた感じやったんかな」

 原告団の副団長、尼崎市の黄光男(ファングァンナム)さん(63)が、朽ちた桟橋を見詰めてつぶやいた。光男さんがまだ1歳だった1956年、母はハンセン病患者としてこの島に収容された。父も翌年、収容される。残された光男さんは、岡山市内の児童養護施設に入った。

 両親は在日朝鮮人1世。10代で日本に渡り、光男さんは大阪府吹田市で生まれた。古い1枚の写真がある。幼い光男さんと母は笑顔を見せる。記憶はないが、「貧しいながらも、仲良く暮らしていたんでしょうね」と話す。

 光男さんが生まれたころ、母はすでにハンセン病に罹患(りかん)していたようだ。

 当時、地域社会を挙げてハンセン病患者をあぶり出し、療養所に入所させる「無らい県運動」が続いていた。住民が患者の情報を行政機関に通報すると、役所の職員が駆けつけ患者に入所を勧めた。

 光男さんは大阪府に情報公開請求し、母の患者台帳を入手した。そこから、府職員による執拗(しつよう)な入所勧奨の実態が浮かんだ。一家は地域社会からはじき出され、通っていた銭湯では入浴を拒まれた。

 父が療養所入所前のことを振り返った音声が残っていた。府職員が母から光男さんを引き離そうとすると「気が狂ったように泣き叫んでいた」と語っていた。

     ◆

 岡山の養護施設にいた光男さんを、療養所を退所した両親が迎えにやってきたのは8年後、小学3年生になる春のことだった。尼崎で家族そろっての暮らしが始まる。「だけど、うれしくも何ともなかった。両親や家族がどういうものなのか、分からなかった」

 光男さんは大人になっても、両親や家族への違和感を抱き続ける。幼いころに引き離された空白を、どうしても埋めることができなかった。家族の絆は奪われたままだった。

 両親はハンセン病の病歴を隠し続けた。母が薬を飲んでいるとき、光男さんが「何の病気?」と尋ねたことがある。母は声をひそめて、「らい病や」と言った。そのしぐさで、誰にも言ってはいけないことだと胸に刻んだ。

 今回の国賠訴訟には、500人以上が原告に加わったが、実名を公表しているのは副団長の光男さんらわずか数人しかいない。

 弁護団共同代表の徳田靖之弁護士(75)は「元患者と家族への差別は今も続いている。それを解消するのがこの裁判の目的の一つ」と語る。

 元患者や家族らの集まりがあると、光男さんはいつもギターを抱え、「ふるさと」を歌う。歌はやがて「アリラン」へと変わっていく。10代で日本に渡り、貧しい暮らしと闘病、激しい差別に苦しんだ両親。光男さんの表情は優しげであり、悲しげであり、そして怒りに満ちている。

【ハンセン病】 らい菌が引き起こす慢性の感染症。菌を発見した医師、ハンセン氏にちなんで名付けられた。主に皮膚や末梢(まっしょう)神経を侵す。知覚の低下や運動障害を起こし、気付かないうちにやけどや負傷を負うことがある。感染力は弱く、遺伝する病気ではない。国は長年隔離政策を続け、患者は差別偏見を受けた。治る病気で、新規患者は年に数名程度。ただ、海外には多く患者がいる途上国もある。

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