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保育所があった場所に立ち、当時の暮らしに思いをはせた=岡山県瀬戸内市
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保育所があった場所に立ち、当時の暮らしに思いをはせた=岡山県瀬戸内市

 多くの元患者や家族が、消毒用の白い粉まみれにされた記憶を持つ。それは周囲の人たちにハンセン病の恐ろしさを知らしめ、差別と偏見を助長する“儀式”のようだった。「社会から抹殺される公開処刑」と表現する人もいる。

 須藤謙一さん(82)=仮名=の脳裏にも、恐ろしい体験として刻まれている。

 1947年、当時10歳だった謙一さんはハンセン病患者の父、妹3人と、岡山県の国立療養所「長島愛生園」に向かうため大阪駅にいた。母はこの1年前に病死していた。

 やがて白衣の男たちが、父や謙一さんが通ったプラットホームや貨物列車に白い粉をまき散らしていった。一家は恐ろしい感染病患者として扱われた。一つ違いの妹の記憶では大阪府内の自宅でも、頭から白い粉をかけられたという。

 療養所のある離島は患者が暮らす地域と、職員用の地域に分けられていた。島に着いた謙一さんと妹たちは父と引き離され、職員用地域の保育所で暮らした。

 保育所は31年から55年まであり、242人の子どもたちが入所したという記録がある。子どもは「未感染児童」と呼ばれ、年2回、定期的に注射をうたれた。化膿(かのう)することもあり、謙一さんの両腕には10ほどの痕が残る。

 「患者地域には行ってはいけないと職員に強く言われたが、父に会いたくてこっそり訪ねました」。父はお菓子を出してくれるが、どうしても食べる気になれない。消毒、隔離、注射…。ハンセン病への偏見がどうしようもないほど、塗り重ねられていた。

 6年生になった謙一さんは、大阪府内の養護施設に入ることになる。養護施設から中学、高校に通い、短期大学を出て就職。結婚し、子どもにも恵まれた。

 父を呼び寄せて親孝行がしたい、という思いがあったがどうしてもできなかった。「父は少し手が曲がっていたが、顔にも目立った後遺症はない。それでも元患者であることが知られてしまうのではないかと不安があって…」。父が「一緒に暮らしたい」と言うこともなかった。

 81年、父は愛生園で他界した。享年71。園内の教会で葬儀が営まれた。謙一さんは深い悲しみと同時に、安堵(あんど)の気持ちを覚えた。これでハンセン病と縁が切れる。苦しまなくていい。だが、そう思ってしまう自分が嫌で苦しい。

 ハンセン病は感染力が弱く、不治の病ではない。子どもや孫に遺伝もしない。なぜそう教えてくれなかったのか-。

 謙一さんは昨夏、愛生園を訪れ、保育所の跡地に立った。友達とタコやナマコを採った思い出とともに、父の姿が浮かんできた。「親孝行したかったな。一緒に暮らしたかったな」

 兵庫県内の自宅近くに墓を建てた。父と母はそこに眠っている。(中部 剛)

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