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松山次郎さん(仮名)の困難な暮らしぶりを示す古い文書
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松山次郎さん(仮名)の困難な暮らしぶりを示す古い文書

 日差しが強く、蒸し暑い日だった。昨年5月、熊本地裁でハンセン病家族訴訟の証人尋問が開かれた。

 「原告番号59番さん」。大阪府内に住む松山次郎さん(81)=仮名=が立ち上がった。原告561人のほとんどが匿名。公開の法廷では名前ではなく、原告番号で呼ばれる。緊張した面持ちの松山さんが陳述書を読み上げ、人生を振り返った。

 中部地方に生まれ、海沿いの町の長屋で義父と母、2人の妹と一緒に暮らしていた。母の肌はただれ、そこに膏薬(こうやく)のようなものを塗って包帯を巻いていた。笑顔の絶えない母だったが、ハンセン病になったころから外に出なくなった。

 小学4年生のころ、帰宅すると、家の前から母と妹を乗せたジープ型の車が走りだした。「どこ行くんや」。泣き叫びながら車を追い掛けた日をはっきりと覚えている。

 母たちは、岡山県の国立療養所「長島愛生園」に収容された。この日以来、義父の態度が変わってしまった。理由も分からないまま殴られたり、蹴られたり。ひとつの布団に寝ていたが、朝になると蹴飛ばされ、「おい、ご飯」。食事は義父ともう一人の妹の分だけ。松山さんは鍋に残った米粒に水を足して食べた。

 おなかがすいて、イナゴ、バッタ、野イチゴ…。何でも口に入れた。暴力は次第にエスカレートし、大家の鶏小屋で雨露をしのいだ日もあった。「家に帰れず、うろうろし、野良犬のような生活でした」。法廷で松山さんが静かに語った。義父もやけになっていたのかもしれない。

 こんな生活が1年数カ月続いた後、母がいる長島愛生園の保育所に保護された。児童相談所が愛生園に宛てた文書がある。そこには「生活豊かならず母は虚弱(略)、浮浪児に非ざるも浮浪状態に近きもの」と苦境が記されている。

 松山さんはこの文書が自分の原点だという。「この時のことを思えばどんなことも耐えられる」とも。

 愛生園で母と再会できた喜びもつかの間、大阪府内の児童養護施設に移され、再び引き離されることになった。養護施設から学校に通い、「戦災孤児」と偽って母の存在を隠し続けた。

 就職しても世間の目が怖い。ささいなことで母の病気がばれるかもしれない。目立たないように生き、会社の表彰すら断った。

 母は約40年にわたる療養所生活を経て生涯を閉じた。義父の暴力、一家離散、世間の目におびえる毎日。隔離政策に苦しめられた松山さんは、陳述をこう締めくくった。

 「お国は、貧しかった私にご飯を食べさせてくれ、学校にも行かせてくれた。感謝してます。だけど隔離政策は間違っていた。『すまなんだ』と一言謝ってほしい。それだけでいい…」。嗚咽(おえつ)をこらえ、絞り出すような声が法廷に響いた。(中部 剛)

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