広島の市街地を行き交う路面電車を、太平洋戦争で召集された男性社員に代わり、10代の女学生が運転していた時期があった。2年間だけ存在した「広島電鉄家政女学校」で働きながら、友情や恋に生き生きと過ごした女学生たち。その一人、増野幸子さん(89)=広島市中区=は、被爆して114個のガラス片が背中に突き刺さり、その後も差別を受けた。歳月を振り返り、語る。「あの日まではいい青春だった」。(石川 翠)
広島電鉄(広島市)は1943年に女学校を設立。学びながら働いて給与をもらえる場所として、市内外から入学希望者が集まってきた。
増野さんは広島県北部の粟屋(あわや)村(現・三次(みよし)市)から2期生として44年春に入学。車掌業務を経てまもなく、念願の運転士を務めることになった。「子どもが運転してる」と笑われることもあったが、鉢巻きをしめ、運転席でレバーを握り、いざ電車が動き出すと「天下を取ったような気分だった」と懐かしむ。
悪化する戦況で、次第に授業もなくなり、終日運転する日が続いた。空襲警報におびえながら、楽しい出来事もあった。「親しくなった男子学生を満員時に運転席の横に入らせてあげたこともあったのよ」。寮に帰ると、仲間で集まり、乗車券と一緒にラブレターを渡された話で盛り上がった。親元を離れたさみしさを和らげたのは、新たな地で芽生えた絆だった。
原爆が広島に落とされた45年8月6日。朝からいつも通り、電車は走っていた。増野さんは体調不良で休んでおり、爆心地から約2キロの社員寮で被爆。やけどした足の甲を川で冷やそうと外に出ると、皮膚がずるむけた真っ黒な人影がぞろぞろと歩いている。「オバケじゃ」。ただただ恐ろしかった。
背中にたくさんのガラス片が刺さり、血が足までしたたり落ちる。なんとか避難先で手当を受けることができ、弟がガラス片を数えると、114個あった。後に、女学校に在籍していた約300人のうち、30人が犠牲になったことを知った。
戦争が終わってもつらい現実が待ち受けていた。親戚を頼って兵庫県姫路市内の紡績工場に勤務することになったが、浴場で背中を見た同僚たちが「毒がうつる」と一斉に逃げていった。1人浴場に残され、鏡に映る背中を見ながら「私のせいじゃない、戦争が悪い」と何度も自分に言い聞かせたが、涙は止まらなかった。
数年後、広島に戻って以来、この地で暮らしてきた。今も腰の辺りにガラス片が数片残っており、指で押さえるとコロコロと動く。
今年も原爆忌の6日は、広島電鉄の車庫に設けられている慰霊碑を訪れる予定だ。ともに鉢巻きをしめ、電車を走らせ、笑い合った仲間たち。一人一人、顔を思い浮かべる。
