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原爆投下後の広島の様子について話す筒井秀子さん=神戸市須磨区
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原爆投下後の広島の様子について話す筒井秀子さん=神戸市須磨区
筒井秀子さん(後列右から1人目)と原爆で亡くなった弟の松下章さん(前列中央)
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筒井秀子さん(後列右から1人目)と原爆で亡くなった弟の松下章さん(前列中央)

 閃光(せんこう)とともに襲った衝撃が広島の町を壊滅させた。広島市内の自宅で被爆した筒井秀子さん(92)=神戸市須磨区=は、5歳下、当時13歳の弟を失った。警報が鳴る中、家を出て行った弟の姿を忘れることができず、思い出すたびに「ちゃんと引き留めておけば」と目が潤む。広島市への原爆投下から6日で74年。「あんな悲惨な状況は二度と起こしてはいけない」と強く願い、重い口を開いた。

 「姉ちゃん、靴貸して」。1945年8月6日朝、延焼を防ぐ「建物疎開」の作業のため、広島県庁に向かう準備をしていた弟の松下章さん=当時(13)=が玄関で叫んだ。「B(米軍B29爆撃機)が飛んでいるから行くのやめとき」。挺身隊(ていしんたい)の仕事が休みで自宅にいた筒井さんは声を掛けたが、章さんは空襲警報から警戒警報に変わったから、と家を飛び出していった。これが弟の最後の姿だった。

 午前8時15分。爆心地から3キロほど離れた広島駅前の自宅も衝撃にさらされた。窓ガラスが割れ、うずくまった筒井さんの膝にガラス片が降りかかる。「そのときは自分の家が爆撃の中心やと思っていた」と筒井さん。今も膝付近にはガラス片が残ったままだ。

 慌てて外に出ると、自分の家以外は西も東も何もない。町は外観のみになったビルがわずかに残り、ほとんどの建物が崩れた。黒焦げになった遺体やれんががそこら中に転がり、ガラスは散乱。自宅の水道が勢いよく噴き出し、その水を求めて多くの人が歩いてきた。大人も子どもも男も女も、みんな皮膚がただれて垂れ下がった状態だった。

 広島市の西隣にある廿日市市の姉宅に向かう道中。川は水を求めた人の遺体で埋め尽くされ「赤く黒いが青光りしている。なんとも言えない光景だった」と声を震わせる。

 県庁に向かったはずの章さんを捜して、母と姉が市内を回った。しかし、どこにもその姿はなく、見つかったのは防空頭巾の切れ端だけ。「遺体もなく、どこでどうなったかも分からない。弟のことをしのぶなら、思い出したくない原爆の日の光景を思い返すしかない」と悲しげに語る。

 終戦後に結婚し、夫の転勤で神戸に移ってきた。約50年前からプラスチック製保存容器などを販売する会社で代理店販売員を務め、今も元気に働く。毎年お盆には帰省し、章さんの墓に手を合わせる。

 これまで語り部として話をしてもらえないかとの打診もあったが、「大勢の前でこんなつらい話はできない」と断ってきた。しかし「話せるうちに。一度なら」と取材に応じることにした。章さんの写真を見詰めながらつぶやく。「戦争は罪のない子どもや大人、みんなが被害者になってしまう。絶対にいかんよ」(篠原拓真)

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